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ひとそれぞれ論でいい


何かを見て、それを見て感じることは
誰かと同じかもしれないし、違うこともあります。

みんな違ってみんないい(金子みすゞ)

私と小鳥と鈴と  金子みすゞ



みんな違って、みんないい

金子みすゞさんの書かれた詩は美しいです。

我が家にも娘がいてテレビで
幼い頃によく観てました。とても優しい歌詞。

そして
金子みすゞさんの真意はどうなのか。
そこが、一番知りたいところ。


言葉の並び方にも真意が現れていると思いました。

最初は私と小鳥と鈴とが
最後には鈴と、小鳥と、それから私
に変わっています。

誰かの特徴とわたしの特徴は違うけれども
存在は全部同じ。
鈴とわたし、小鳥とわたし、どれも
相手がいて、初めて「わたし」を認識できると
考えているのではないでしょうか。

鈴に至っては生き物ではないけど、
大きな視点から見たら有機物という意味で
人間や動物と同じ。

わたし、が相手の立場になって、存在がみんな平等だとわかった時点で尊重になる。


発達障害への「見方」

調べたら
今は、これが絵本や教材になって発達障害の子がなにか困っていることないか、みんなに問いかける教材に使われているんだそう。


それを聞くと思うのは素直な反応なのですが
「発達障害ってダメなんですか?」
ということです。
ダメとは言わないまでも、障害ってつけるのって
普通じゃないって判断をしているからですよね。

・おとなしくじっとしていられない
・衝動的
・興味がないことにはまるで関心を示さない

D=ディスコネクト
コネクトが切れた、つまり不具合を起こしてるって
こと。


ん?と疑問が。

なんでもDってつきますけど
全部が一方的な見方だなぁと思います。
診断書をもらって病名がつく、的な。
正しいかどうかで言ったら
ある人にとっては。でしょう。


うちは娘がそういう性質を生まれつき持っていましたし、よくよく考えたら
わたしもその気質がありました。
多動、興味関心が移ろいやすく、じっとしているのは苦手。それで苦労したり誤解されたりもしたことがあります。

ふつうなんてない

若い頃に、人並みになりたくて、
根性で努力したことがありますが、
何も生まなかった。自分が嫌いになって
終了。


見方を変えれば
好奇心旺盛で、興味あることには集中する
感覚が鋭く、自分の直感を信じて生きる才能を
持っているということです。

そして一番書きたいのは
ひとそれぞれ論て
まさにアーユルヴェーダのことなんですよね。

アーユルヴェーダの体質論



体質に対して、OKもNGもない。
どの体質だとしても、それでいい。
どんな体質だとしても、そこから始めよう、
何かを目指すんじゃなくて、
自分のちょうど良さにチューニングすることが
目的です。

アーユルヴェーダには体質に対する尊重があります。


古民家を見て、汚いし古いし、わたしは新築じゃなきゃ嫌。という人もいるし
今すぐにでも住みたいくらいに可能性や魅力しか感じないっていう人もいます。


それと同じことで
自分のチューニングをすることを
忘れてはならないんです。
嫌いを好きに、とか
できない、を努力でできるように、とかではなく。


好きなことはもっと好きに
やりたいことに集中できるように
自分の体を整えて準備をする。


そういうと、それぞれ論じゃダメだ。
人それぞれだと、大人になって社会に出たら
できないことはできないって
わけにはいかないでしょ?
ただのわがままだ。

という人がいます。


それを聞いて思うのは
あなたはどうしたいのですか?
ということ。


平等に、の落とし穴

得意なこと、は誰かの苦手だし
苦手なこと、は誰かの得意なことだったり、
はよくあることです。


鈴は鐘にはなれないし
小鳥は鷲にはなれません
なりたい、とも思ってないでしょう


みんなに等しく同じ教育をしたら
能力も等しくなる、なんて所詮
無理な話です。凸凹があるのが自然なんですから。


「ひとそれぞれ論」は
結論から話すと
どれもがその人にとっての
正解だから
感じることも自由じゃないか。という理由です。


ひとそれぞれ論には、正解がないんです。
予定調和がない。
正解を決める必要がないというか。
人それぞれ、という価値観は相手を尊重することからきています。


親子でも夫婦でもパートナーでもです。
みんな、それぞれに自分の世界があって
感じることはみんな違うんですよね。

話し合いとか寄り添いとか
必要がない部分なんですね、
だってそれが当たり前だから。


話し合いができる土台



だけど、価値観違う者同士がひとつ屋根の下に住んでいて話し合いが必要な場合も出てきます。
お風呂の水を抜くタイミングとか
家事の当番やゴミ捨てなんかのルールも。


話し合いをするにも
言い聞かせるんじゃなく、あなたはそう考えるんだね、それはなぜそう考えるのか?まで話せる関係じゃないと、話し合いにはなりません。


その話し合いって
お互いが平等の関係性でないとできないんですね。
平等って能力の話じゃなくて、
関係性に上下がない、ということです。


言い聞かせるとか、論破する、ではなく
相手の考え方次第では、
自分の考えが変わることだってあります。
話し合いって柔軟でフラットなものなはずです。


家族やある程度の関係性があるからそれができますが、社会の中で話し合いをするのは
難しいですよね。だから論破になっちゃう。


正解を求めすぎると争いになります。
正義のため。とかいって戦争になるんですから。
多数決も同じ。
話し合いの結果、出した答えならいいですけど。
圧力が感じられる場には違和感があります。


相手が分からないから知りたい、のか
わたしの考えを分かって欲しいのかでも違う。
後者は押し付けとも言いますね。


教えてほしかったら自分から頼むはず。
宗教勧誘なんかは良い例。
頼まれてもいないのに、一方的に意見を伝えてくるのは完全な押し付けですね。
こんな人が周りにいたら無視したらいいと思う。


自分の話しかしない人

例え宗教じゃなくても
一方的に否定してきたり
自分の意見や話しかしない人も同じです。


本当なら
あなたはそう感じるんだね。それはわかった。
の後に
「わたしはこう感じるんだよね。だからあなたもわかって」がつくはず。


理解されなくて悲しかったんじゃなくて
相手も理解しようとしてくれた事を見たら
悲しくなんかないでしょう。
自分の話だけしていることに気づいていない。
相互理解って、お互いの尊重からできているもので、一方的に自分だけ理解してほしいなんて
ありえない話なんですよ。
お互いの関係性が平等の時にできるものです。


固い話にはなりましたが、Dの話には
熱くなってしまいます。
お読みくださりありがとうございます。

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