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「他人の価値観では生きない」とはどういうことか

よく聞く言葉に、「他人の価値観で生きないようにしよう」というものがある。これはどういうことかというと、ようは「マウント」の無意味さのようなことだと思う。

ブランドものを持ったり、見栄を切らないとかそういうことなんじゃないかと思う。

私自身をみると、マウントっぽいものに踊らされる一面もあるけど、そもそも友達がいないのでそこまで深刻に人の価値観に振り回されているようには思えない。なので、その点に関しては特に気にするまでもなかった。

しかし最近、「これは実は【人の価値観の権化】なのではないか」と思うものを発見した。お金だ。

お金は物の価値を決める数値なのだが、その価値を決めるのはいつも他人だ。自分が何かの価格を決めることは滅多にないし、決めることがあってもかならず「相場から言って~」っという思考回路が働く。

それはそもそも当たり前で、何かのモノにどのような価値があるのかは、比較しないと表せない。その比較を数値化したものがお金なので、当然、お金の存在そのものが「他人の価値観」だということになる。

そうやって考えてみると、私もお金や収入に関しては他人の価値観が介入するということになる。私は以前は「絶対に成功してやる!」とか「絶対に年収1,000万円になってやる!」みたいなことを考えていた。それが自分の幸福につながると思っていた。将来に不安を持つことなく、時々おいしいものを食べたり、不自由なく暮らせるために年収1,000万円が必要だと思っていた。

そう考えている人はきっと多いだろうし、その考え方自体に「他人の価値観で生きている」という事実を見出す人は少ないだろう。

しかし、お金がそもそも他人の価値観を数値化したものだとすると、「年収1,000万円になる」も結果として私の価値観ではない、ということになる。

例えば私が年収1,000万円を達成したとしよう。それは何を意味するか。つまり、それは私が「年収1,000万円ぶんの価値があると他者から評価された人間」であることが証明されるに過ぎない。私が年収1,000万円分の人材だと他社から評価されて、それが果たして幸福につながるかというと全くの無関係だ。それは他人の作った価値観の数値だからだ。

他人が決めた数値が高かったからといって、たぶん将来への不安がなくなることはないだろう。せいぜい年収1,000万では完全に「安心」することは無理だ。フリーランスなので一時その額が稼げても一生稼げるとは限らない。仕事が上手くいって年収が3,000万円になったところで、それが維持できないかもって思うだけで全然安心できない。年収一億くらいになったって、国家の財政破綻や有事の可能性を示唆し、お金を守らなければならないと思う。それって全然幸せじゃない。

おいしいものを食べたいとかいうことも、別に今でもときどきならある程度できるし、そもそも「安心」できていなければ、いくらおいしいもの食べたくらいで幸福にはならない。そして前述したように、いくら収入が上がっても「安心」にはつながり得ないようだ。

そうやってみると私はあまり1,000万円を稼ぐ必要がなさそうだ。私は面白おかしく生きていきたいのであって、それと「年収1,000万円」はあんまり関係がないからだ。

同じ年収1,000万円でも、もしもその「価値」に重きを置くのではなくお金という「数値を高めるゲーム」を楽しんでいるのだったら全然別かもしれない。それを「自分の価値」だと思わずに、テレビゲームするかのように楽しめるのであれば問題なさそうだ。

そうなってくると私の次のテーマは、「人生の指標をお金以外に置く」ということになる。お金に関係なく、自分が安心な状態であるという概念を捻出するのが、実は一番の解決策のような気がする。

しかし、これが実はすごく難しい。フリーランスで働いているだけあって、常にお金の不安は付きまとうからだ。

一般的な思考回路としては、「年収1,000万円はいらないよね。だけど、まあ年収300万円くらいは欲しいよね」となる。年収300万円くらいなら何とかなりそうだが、そもそもこの思考回路自体がやはり「お金」を指針としているわけだ。

自分がどう、お金という他人の価値観を切り離して「自分ごと」に集中するか。長くなったので、続きはまた次の機会にでも。


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