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【読書感想文】反応しない練習|草薙龍瞬

以前から仏教の思想に興味があったが、この「反応しない練習」は仏教的思想を現代の生活に置き換えているとのことで興味を持って読んでみた。実際に読んでみて仏教的の考え方が大変合理的で、いわゆる「使える考え方」である事をひしひしと感じている。

まず最も私が感銘を受けた考え方は、「あるものはある、ないものはない」と事実だけを認識するといった考え方だ。目の前に見えている、または経験していること以外は、仏教においては全て「妄想」と言うことになる。これが大変面白い。

例えば何らかの失敗を自分がしてしまった時、「どうしてこうやっちゃったんだろう」「もっとこうしていればよかった」などと考えるのは一般的なことである。しかし仏教的に見ると、その考え方は全て「妄想」だと言うことらしいのだ。

何かを失敗してしまったときには、自分の感情はさておき「私がこうしてしまった結果としてこのようなことが起こった、さて自分はどうしよう」といったことを考えるのが仏教として正しいとされる考え方のようである。

逆に外的な何かから大変不愉快なことを言われたり、イライラする出来事があった場合にも、同じことが言える。思い通りにいかずにイライラしたりすること自体は起こり得ることだが、基本的には「イライラ」と言う感情自体が無駄で、重要なのは今この段階において何をすればいいのかといったことのようである。

自分で何をしてもどうにも改善できないことの場合は、イライラしても悲しんでも怒っても無駄なので、忘れちゃえばいいじゃない、と言う考えなのだ。

これは大変に良い感じの考え方である。

例えば今日、私は藤井聡太と渡辺明のタイトル戦を見るのを楽しみにしていた。そのタイトル戦は「王将戦」といい、中継は囲碁将棋プレミアムと言うネット配信が独占している。

いよいよ配信の時間になってアクセスしてみると、アクセスがつながらない。アクセス方によりサーバーがダウンし、動画配信ページが落ちてしまっていた。

囲碁将棋プレミアムは月額980円で加入する有料サービスである。普段から様々なコンテンツを楽しんでいるわけではなく、このサービスは概ねこうしたタイトル戦など大きなイベントによって集客しているものである。つまり王将戦を見るためだけのために、囲碁将棋プレミアムに加入していると言っても過言ではないのだ。

にもかかわらず対局の冒頭でサーバーダウンをさせてしまった。対局前はもちろんのこと、対局が始まってしばらくたってもサーバーは復活しなかった。動きの少ない将棋観戦において、対局が始まる前と始まってからしばらくの時間はとても重要で、対局が終わる時と同じ位の注目度が集まる。

にもかかわらず、有料サービスでありながら大事な1局目の冒頭(特に初日は振り駒と言う先手後手が決まる重要なイベントも催される)が観戦できなかったのは痛いと言うほかない。

と言うわけで当然のことながら、私はイラ立った。イライラして1人でサイトにアクセスを試みながら、「ふざけるなよ」などと声を荒らげたりもした。Twitterなどで確認すると、ほかの視聴者もいらだちを隠せない様子。母も同じサービスに加入して観戦を試みていたが見れず、やはり激怒していた。

しかしそんな時間が10分ほど続いていくと、この「反応しない練習」と言う本のことを思い出した。

よくよく考えてみると、私がここでイライラしようがしまいが、囲碁将棋プレミアムは復活しないのである。そしてよくよく考えてみると、対局開始の様子は見逃すとは言え、その勝敗を大きく左右するものでもない。

よしんばもし勝敗を大きく左右するものだったとしても、だからといってここでイライラすることで囲碁将棋プレミアムの配信が復活するわけでもない。

そうやって考えてみると囲碁将棋プレミアムが接続できないこと自体は残念ではあるけれども、イライラして声を荒らげたり怒ったりものに当たったりする事は、ただ単に無駄なことだということがわかる。

それに気づいたとき、イライラの感情は一気におさまった。

もちろんこの問題を解決してもらうために、企業に意見するといったこと自体は有益なことかもしれない。私は特にそういった事はしなかったが、それは全然アリだと思う。とは言えそういった抗議をすることと、怒りの感情を持つと言う事は、本来あまり関係がないことなんだと言うことが冷静になってみるとわかる。

「反応しない練習」には、こういった考え方が多く記載されている。

もちろん私自身は、「反応しない練習」と同じ著者の「これも修行のうち。」と言う2冊の本しか読んでいないので、これが本当の意味で仏教的考え方なのかどうかも怪しいところではある。この解釈は、私が「反応しない練習」を読んで独自に「仏教的なのかな?」と思った思想に過ぎない。

とは言え別に私はこれから経験な仏教徒になろうというわけでもなければ、仏教についての本を書きたいわけでもない。日々の生活においてなるべく楽しく幸せに過ごすためのメソッドとして、仏教を都合よく解釈しても全然問題ない無責任な立場なのだ。

この本を通して様々な学びがあったが、一貫している事は自分がコントロールできないことを考えても無駄だということだ。

今後もこの考え方を持つことで、日々の暮らしが劇的に楽になるではないかと期待している。

(ちなみに私は普段人と接する機会も少なくイライラするような場面自体が少ない。せいぜいで囲碁将棋プレミアムが接続できないくらいしかストレスといったストレスはないが、いずれにしても。)


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