その感情って、持つ必要ある?
最近仕事でイラっとした出来事があって、それについて何時間もモヤモヤ考えていた。
普段からいろいろなメディアや本を読んでいると、多くの著名人やインテリたちが合理的に物事を考えて、何かしら不機嫌な出来事があるときに「自分の力でどうにかなることについては、何とかする。どうにかできないことについては、諦めて忘れる」と良いという。
そもそもその考え方は、すごくヨガの思想にも近い。なので私自身もものすごくその考え方が好きだ。ぜひ、取り入れたいと思っている。
にもかかわらず、実際にupsetな状況になったときには、考えても仕方のないようなことをウジウジ考えるし、正否を確かめようのないことについて妄想したりしてしまう。
今回もそうだった。仕事に関してイライラして、残念に思った。「どうしてなんだろう?」と理由が分からないようなことをずっと考えていた。そしてそんな悪い妄想が頭の中に走っているときにも、私自身、「この妄想って絶対やるべきじゃないよなあ」と思ったりしていたわけだ。
「考えてもしょうがないこと、考えちゃうのはなんでなんだろう」と頭の隅で考えながら、悪い妄想を続ける。一段落つくと「こういう悪い妄想をするのが、結局何か自分の中で気持ちいいってことなのかなあ」と考えたりする。そんなことはないし、嫌なものは嫌だ。要するに、自分の頭の中がネガティブな感情で支配されている、という状態。その状況に、私も気づいている。
今回の場合は、最終的には自分の中で、「でもまあ、良いか」という考えにまとまった。その考えに行きつくまでに、半日ほどもモヤモヤした時間を費やしたのかと思うとちょっとモッタイナイ。できれば、一瞬で「まあ、良いか」という考えをまとめられていれば、と思う。
しかし、もう一歩この一連の流れを分析してみたい。結局私は悪い妄想をし続けた結果、長い時間をかけていろいろな情報を整理し、妄想ベースではあるものの「あ、もしかして結局こういうことだったのかな」という、良い妄想に転換することで気分がよくなった。つまり、自分の妄想の中ではあるけれども納得のできる事実を捻出できたわけだ。
いっぽう、もしもヨガ的な、合理的なアプローチによって「そもそも妄想してもしょうがないことだし、考えるだけ無駄無駄。事実だけ見よう」という整理の仕方は、「納得感」を無視して感情や思考を「止める」行為だ。
そのような言い方をすると、「自分が納得した方がいいから、いろいろ考えるのも悪くないのでは」と思うかもしれない。しかしそういうことではない。今回は悪い妄想を続けた結果、良い妄想に転じることができたので、運よく納得できて終わることができた(実は私は最終的にはかなりポジティブなので、大体こんな感じでポジティブに終わる)。
しかし、ポジティブに変革しようのない出来事が起こった場合には、この手法では自分のメンタルを十分にケアすることはできない。
例えば大切な人を失うといったような、絶望に近い感情が出たとき。その出来事が理不尽な理由であればあるほど、悪い妄想をし続けてしまうし、当然それをポジティブな感情に転じることは無理だ。だんだんその嫌な妄想が収まるのを待つしかないが、時には何年もかかるし、最終的にそれでも納得できずに終わることになるもしれない。
だとするとそういうことがあった時に、「考えても全く仕様の無いことだ」と感情を「止める」ことがやはり最適解のように思う。
その感情、持つ必要あったっけ?と。
私は幸いなことに、人生で一番つらい、理不尽な出来事に遭遇したことはない。だからと言って油断は禁物だ。いつどこでどのような悲しみと対峙しなければならないか、それは神のみぞ知る。
そんなことが起こらずに一生を終えられればいいが、普段から少しずつそうやって感情を止めることを練習して身につけておけば、生きていくことがけっこう楽になるのかもしれない。
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