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【読書感想文】探検家の日々本本|角幡唯介

角幡唯介の本を読んだのは、これが5回目だと思う。角幡唯介と言えば冒険家と知られており、私も「極夜行」「空白の五マイル」といったノンフィクション小説やいくつかのエッセイを読んだ。

角幡唯介の本を読んでいると。私が常に持っている常識を一気にひっくり返すような価値観や表現を目にすることがある。基本的に角幡唯介の作品には現代に生きる我々の価値観から永遠大きくずれた部分があり、それらを目にするたびにドキッとするものである。

とは言え私の中にも、「前提」として「角幡唯介には我々と違った価値観を持っている」と思っているということを認める必要がある。本を読めば「ドキッとする」経験を期待して書籍を読み進めるので、実は本当の新鮮な驚きというものに出会える確率は限られているといえるかもしれない。(もちろん、常にばかみたいになんどもドキドキしたいわけでもないですし)

特に角幡唯介は普段からそのユーモアセンスの高さでも知られており、Twitterなども読んでいると時々「本当にこの人はしょうがないなあ」と思わされることが多い。その本を読んだことがない人には、まさか「極夜行」がこれまでにバカみたいな下ネタに満ち満ちているとは想像もできないはずだ。

「角幡唯介の本は笑えるし面白いし、いろいろな色々な発見があってドキッとさせてくれる。とても刺激的だ」こういう期待を持って読んでいるので、大体の作品は「思った通り、面白かった」ということになる。

しかし、時々その想像をはるかに超えて、横っ面を張られるような文章に出会うこともある。それが特に、油断しているときに突然現れるから質が悪い。

「探検家の日々本本」も同じようなことだった。全体を通じて面白い発見があり、時に笑わせてもくれる。「こういう驚きがあるんだなあ」とか「こんな価値観があるんだなあと」「こんな本読んでみたい」と新たな発見も確かにあった。

とは言え、私はこの本の一つの章では筆舌に尽くしがたい衝撃を覚えた。「事実を捕まえるー知的ノンフィクション考②」である。

この章では角幡が新聞記者をしていた頃の経験をもとに、井田真木子の「同性愛者たち」を絡めながら、安っぽい言い方で言えば現代におけるメディアのあり方に一石を投じるような作品になっている。

話は彼の新聞記者時代に彼自身が経験した新聞記者と警察署の癒着に関わる問題点から始まり、途中で話は彼がグアムからフィリピンまでマグロ船に一航海同行したときの話に及ぶ。

新聞記者もノンフィクション作家も、どちらも「事実の追求」という点では同じテーマを持っているように見える。しかし、実際には新聞記者は事実を追うのではなく「事実として書ける素材だと認定されているもの」を追求しているという。

いっぽう、「いったい猟師とは何者なのだろうか」という疑問を持ちながら、記録を残さない漁師、過去を憶えていない漁師とは何なのか、考え続ける角幡雄介。

それでも延々と考えていると瞬間的に光が射して、もしかしたらこういうことではないか、という理論というか解釈のようなものが思い浮かぶ。そしてその先行のような思い付きを、また海を眺めながら頭の中で転がしているうちに、この閃きは正しいに違いないという自信が芽生えてくる。
 しかしこの閃きが事実なのかどうか、誰に、どのようにして確認したらいいのだろう。

角幡唯介「探検家の日々本本|事実を捕まえるー私的ノンフィクション考②」より

最終的にこの章は井田真木子の「同性愛者たち」という作品に話はつながってくる。

アメリカの同性愛者社会の中にたった一人の異性愛者として身を置くことで、彼女は少数者として存在することの違和感、寄る辺なさ、すなわち日本の実社会における同性愛者の立場を肌身で感じようとする。

角幡唯介「探検家の日々本本|事実を捕まえるー私的ノンフィクション考②」より

角幡がその言葉でつないだ警察署、漁師、同性愛者たち、この3つの話を受けて、「事実の追求」とはどういったことなのかを深く考えさせられる作品であった。

何よりも衝撃を受けるのは、最終的なこの編の最終的なテーマが「事実の追求」または「メディア批判」のような比較的分かりやすいものなのに、結論に至るまでのモチーフと表現があまりにも非凡で説得力に満ちている点だ。

私自身、角幡唯介とは全く違う形ではあるが文章を書いてお金をもらっている。私は私なりに必要な仕事として文章を書いているので。そのこと自体には後ろめたい気持ちがあると言う訳ではない。

マーケティングを前提とした文章であるので、芸術性や真実の追求といったステージに渡っていないのはわかっている。必要とされている文章ではあるが、尊敬されることはない。

とは言え、私は別に自分の仕事が醜いものだとおもっていないし、嫌いというわけではない。こうした文章を書くことは、それはそれでゲームを攻略しているようで楽しい。

しかし角幡雄介のこういった文章を読むと、私がやりたいことはこれではないという気持ちに強く苛まれる。別にそれは悪いことではない。

最近読んだ本の中に「ザリガニの鳴くところ」(ディーリア・オーエンズ著)というものがある。大変面白い作品で、それに関しても後ほど感想を書いていこうと思っているが、作品を読んだ後に知って驚いたことは、その作者が70歳になってその作品で、小説家としてデビューしたということである。

私は別に70歳になって小説家デビューしたいと思っているわけではない。とはいえ時々、もしも、あと半年の命と宣言されたり、急に20億円が手に入ったりとして、その時に私が実際に何をやりたいか想像することがある。一般的にはその回答が、「本当に自分のやりたいことだ」とされると何かの本で読んだ。

私はそうなったら納得のいく文章を書きたい。今までは、それが小説だと思っていたが、小説に限らず、何か自分が納得のいく文章を書きたいと思う。

最近よく本を読んでいて面白いと思う本を見つけるたびに、自分がこういったことに興味があったのかと思い知らされることがある。それはかつて小説家を目指した時に呼んでいたものとは、大きく異なっているということにも驚きを感じている。

小説家を目指していた時には、「これを読まなければいけない」「小説家たるやこうした文学を教養としては知っておくべきだ」という考えのもとを本を選んでいた。純文学よりの文学小説を選び、ビジネス書は読まないし自己啓発書には偏見すら持っていた。

しかし私は実はあまり、純文学よりの文学小説が読みたかったわけではなかったということに最近気づいた。だからあまり面白いとは思えず、自分は本を読めない人間なんだと思っていた。そうして本から離れてしまっていた。

最近になって自分の好きな本を読めばいいんだと気づいて、読むようになってから読書の量が一気に増えた。そしてさまざまな本に触れるにつれ自分の興味がどういったところにもともとあったのか、がわかるようになってきた。経済やビジネスの本が思ったよりも好きだし、小説だったらミステリーや社会派の小説が好きだということだ。(そういえば、中学生のころはあんなに好きだったジョン・グリシャムを高校に上がってから一切読まないようになっていた)

人間は人生はいくらでもやり直しがきくという言葉を聞くけれども、私は、この年になって、もう少しビジネスを真剣に学んでくればよかったと思わないではない。

とはいえ私は根本的に楽天主義者なので、過去がこうだったらよかったのに、ということにとらわれることはない。角幡唯介のこの本を読んで強く感じたことは、私がこれから書きたいものを追求するチャンスを得たということだ。

これからの可能性の広さを考えると胸が躍る。角幡唯介流に言えば、この本は「非常に迷惑な本」とも言えそうだ。


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