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【97/1096】息を基準に生きる

97日目。今日は祝日、そして子どもの冬休みが最後の日ですよ。明日から、平常運転。でも冬休みもあまり変わらなかった気もする。朝ののんびり度は多少あったかな。
今日は長文になってしまいました。まあそんな日もありますね。

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今朝の朝食は呼吸のニュートラル(身体が緩む息のポジション)で作って、自分でもなかなか上手に作れたとは思ったのだが、子どもたちの食いつきの良さにびびった。
素材も調味料も料理をする人も変わっていないが、息がよい感じだったというだけで、そんなに違うか?!と思うほど。
「おいしい、おいしすぎる。これ、毎日つくって」
毎日つくってるがな・・・と思いつつ、息の状態は料理の味にも影響するのね、と実感しました。

自分軸、というものを長い間、欲していた。
自分に軸がないから、周りの人や社会に振り回されて疲れてしまうのであって、自分に軸さえあれば、そんなことがなくなり、穏やかに生きられるのではないか?と思っていたからである。
周りの顔色を窺って、相手が正解だと思うこと、世間が正解だと思うことをやることに一生懸命で、自分がどうしたいか?は置き去りにしてきてしまっていた。
そういうと、周りのために一生懸命がんばっていた人みたいだが(そういう面がないとは言わない)、その実、自分で考えることをせず、自分で決めることもせず、自分の不都合を相手や社会のせいにして逃げていたとも言える。
「世間の常識」というあるようなないようなものを基準にして、力のある人には逆らわず、そうでない人には文句を言い、そんな自分はダメだと自己否定しながら、誰かが認めてくれたら、愛してくれたら、こんな自分からは抜け出せると思っていた。
いやー、そう思ってましたねー。笑

誰かに好かれたら、自分を好きになれる。
そして誰からも好かれないので、自分を好きになれない。
この構図がおかしい!!
おかしいのだが、このループにずっぽりはまりこんでいて、抜け出そうとしても抜け出せなかったのであった。
ちなみに、これを恋愛の構図でやると、かなりの不健全な関係性が築けますね!(←自慢になりません)

自分の体調がずっとおかしくなってしまって、このまま死ぬなら楽に死にたいよなー、このままだと苦しんで死にそうだなーと思っていた。
それで、生きている間は、ちょっと楽になるように、身体の声を聴けるようになろうと思って、いろいろやってみた結果、たどり着いたのが呼吸整体だった。

その当時(2017年ごろ)、コーチのまみちゃんに「なにをしたらいいかは、息が教えてくれる」と言われても、なんのこっちゃわからなかった。
今はわからなくても(なにしろ身体が不調だったので)やってれば、そのうちわかる、と言われたので続けてみたという感じだったのだけど、その時にはわからなかったことが、だんだんわかってくるというのは本当にあるな、と思う。
長く学んでいるからわかること。長くなくてもわかる人にはすぐわかるのかもしれないが、本質的なことは学びにある程度、時間がかかると思う。


例えば、本当は人が通れる道としてあるはずなのに、そこに土砂がなだれ込んで、まったく通行不可になっているとしたら、まずは、道を通れるようにするところから始めないとお話にならない。
そこは、道なので。
土砂をそのままにしておいたら道にならないんで。
土砂がなくなって、道になって通れるようになったら、ようやく見られる景色がある。
でもまあ、土砂が全部きれいになくなるまで、道は通れないか?というと、どかしつつ、道はとおれるようにもなる。
なので、両方やりながら、進んでいけばいいわけである。
だけど、始めた最初は、土砂で通行止めになっていることにすら気づいていない。
その状態で、息を基準にするというのはわからなくても仕方ない、というか。
だんだん、道がととのってくればくるほど、わかることが増えてくる感じ。


呼吸のニュートラルというのは、自分の「生きる力」を最大限引き出せる環境設定である。
ここからスタートで、ここが基準で、ここがすべて。
肚で生きるってことだし、自分全体で生きるってことだし、ここが自分ってことだ。
「息を基準にして生きる」ってそういうことだった。
息を基準にすれば、おのずと、自分軸ができあがる。

自分と言う器がもっている最大限の可能性を引き出して生きるならば、ここで生きるのは必須であり、ここにいないときは、息はしているんだけども、生きてないっていうか。
生きてないのだ。死んでないだけで。
それが私が肚落ちしたことである。

息を基準に生きていないときも、たまに、生きてる実感とか、喜びとか、生きててよかった感とか、そういうのが、刹那的に訪れたりするけども。
だから、その刹那を追い求めてしまうというか。
そして消耗して疲れてしまう。

生きてる実感とか、喜びとか、生きててよかった感とか、そういうものは、生きてるベースにあるのである。
だって、生きてるんですもの。

人間には生まれながらにして、自然治癒力とか、恒常性、ホメオスタシスが人間には備わっている。
その人なりの調和の仕方は、もともと持っている。

調和した状態で、生きるのが、自然なのである。

自然でないことをしているから、息が上がる。
だから自然に戻ればよい。

そういうことかーと。

ただし・・・・
長年、時間をかけて、じっくりと、自然でないことをして、それをしみこんできてしまったので、自分の「自然」がなんだかわからなくなってしまったりする。(でもほんとはたぶん、わかる。思考や感情で邪魔しなければ。)

なにかをしないと、自然になれないのではなく、
自然でないことをしてきたので、自然に戻るようにするというだけ。
自然に戻るのに、呼吸のニュートラルという環境設定が必要ということである。
そこにいたら、自分にも他者にも良い影響しかないんだから、そこにいたらいいですよねってことだ。

昨日の所作の講座で、呼吸のニュートラルで痛覚がかわるというのをやった。
① 呼吸のニュートラルで痛みを感じる → 痛みはあるが、やりすごしておわる。残らない。
② 息を上げて痛みを感じる → 痛みが強まる。その痛みから逃げたくなるため、余計なことをする。(イタっと声をあげる、顔を歪ませる、さらに息を詰めて身体を固くするなど)
③ 呼吸のニュートラルで痛みを感じている途中で、息を上げる → 痛みのいやーな余韻が残る。ニュートラルで感じていた痛みではなく、そのイヤな痛みのほうが記憶される。その痛みの感覚を思い出せる。何度もその余韻を味わえる。
④ 息を上げて痛みを感じている途中で、上腹部に力みを入れる → 痛みが増す+怖さを感じる。身体に残って記憶される。(これ、トラウマになるやつ)

痛みと言っても、ワークなので、お互いが合意した範囲でやっていて、そこまでの痛さを感じるものではないのだが、同じようにやって、こんなに違った。

日常を④で生きていたら、年がら年中、身体に恐怖を記憶させていることになるわけだ。
③と④もそのあと、呼吸のニュートラルで感じ切ったら、残らずに終わった。
でも、感じ切らずにいたら、「こわい」「いたい」「あれやだ」の感じが残る。
残したまま生きるか、残さずに生きるか、自分で選べる。

土砂が残っていても、その土砂をどかしながら、道をとおしつつ、今の自分で今のスキルで、息を基準に生きる。
それを日々、繰り返しながら、道の先には何があるかを楽しみにしよう。

では、またね。

★呼吸のニュートラルについては、森田先生のこれを読むと全部書いてあります。


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◎人生で本当に大切にしたい想いを、見つけて磨いて表現する
「自分のCOREから生きるワークショップ」
息を基準にしながら、自分のCOREな想いを自分の言葉で表現できると、自分の生き方が定まります。
可能性がひらいていくのが実感できますよ★













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