見出し画像

【183/1096】不条理をうけいれる

183日目。おしまいにする、というのはほんと大事だな。仕舞うとスペースが開いて次がやってくる。あ、これが納める、ということか。


今起きたこと、過去に起きたこと、それに「なんで?」って思うとき、
それはもう過去にとどまっている。
「なんで、自分がこんな目に遭ったのか」
「なんで、こんなことが起きたのか」
「なんで、やらなかったのか」
「なんで?」オンパレードになれる。
自分で自分にやってることもあれば、他人に対してずっとやってる人もいる。
他人に対してやり続けてるのは、それは暴力だから注意したほうがいい。
自分に対してもそうだけど。
理不尽なことがおきた、それを受け入れられない。
だからずっと、「なんで?」と抗い続ける。
受け入れたら負けるから。

なにに負けるんだろう?

たぶん、重力に負けるのだ。
でも、重力には最初から勝てないけどね。
あれ?じゃあなんで勝負してんのか・・・???

この過去にとどまる「なんで?」ほど不毛なものはないが、不毛なことをなぜかエンドレスでやり続けてしまうのが人のサガである。

別役実という戯曲家が書いた芝居を、20代、30代の頃、良く観ていた。
ものすごくイライラするのだが、それをじーっと観て、自分の中に湧きあがってくるものを必死に昇華させていた。
別役実は、不条理劇を確立させた人で、とにかく、劇中、不条理なことばかり起きる。
出てくる人物たちの会話は噛み合わないし、噛み合わない会話を聴いている観客も噛み合ってなかった。
それを面白い、と感じる人もたくさんいる。
が、私は、まったく面白さはわからなかったのだけども、不条理な人生をただ不条理に、あからさまに顕しているのを観に行っていた。
今思えば、現実のほうがもっと不条理だが、あんなにあからさまになっていなかったから、その明らかにされているさまが観たかったのかもしれない。

不条理が理路整然と解決されることは、いっさいない。
理屈が通るというのは、前提が一緒ということが必要で、前提が違えば理屈は通らないのである。
合意するなんてこともなければ、そこに正解などあるわけがない。
てんでばらばらで、それぞれで、ぐうとなにかを飲み込んで、観た後にでろんとなる芝居を、好き好んで観に行っていた。
いや、好きではなかった。でも、観ずにはいられなかった。

あの飲み込む感じが、不条理を受け入れるということに似ている。
「なんで?」を飲み込んで、淡々とただそれを受け入れて動く。
「なんで?」は追いかけても仕方がないから。
理由などない。
わかりやすい原因などない。
それを、「原因をとりのぞけばスッキリする」なんてことは幻想で、
現実は動かない。

この「なんで?」を嘆く、というのもひとつの方法かもしれない。
でも、嘆いても嘆いても、「なんで?」が追いかけてきたりする。
人生を嘆いてるだけで終わらせるならばいいかもしれないのだが、
それはイヤだ。
嘆きたいときは嘆けばよい。
嘆きたい人は、嘆きたいだけ嘆いたらよい。
でも、結局は、現実と向き合うのだ。
理不尽で、不条理な現実と。

その理不尽で、不条理な現実が、「面白い」と思えるか。
そこに何か見いだせるか。
自分で自分を引き受けることができるかどうか。
今、ここに立てるかどうか。
それを決める。

では、またね。


1096日連続毎日書くことに挑戦中です。サポートしてくださるとものすごくものすごく励みになります◎ あなたにも佳いことがありますように!