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【234/1096】重ねていく

234日目。バケツをひっくり返したように雨が降っている中を久しぶりに歩いた。というか、歩いていたら、雨が強くなったのだが。明日でなくてよかった。明日は運動会だから。


さて、本日は呼吸DOJOの日。
今までにもう何回も何十回もやっているのに、まだ、「あれ?」ってなって、いやー人間って面白いなと思う。
(面白がってる場合じゃないが)

このnoteでもたびたび書いているトータルコンディショニング(TC)という動きを参加している人たちの疑問、質問から細かいところを埋めていく作業があった。
私も最近、自分が解釈を間違えていたところがあったことに気づいて修正したのであるが、「まずは、レシピ通りにやる」というのが大事なのに、レシピ通りにやらないうえに、自分のスパイス(自己解釈)で変更して、「美味しくなりません」ということが起きる。

たとえば、
「おへそをまっすぐに」と言われて
「顔をまっすぐに」している、とか。
「上半身をまっすぐに」している、とか。

そして、TCでは片膝立ちがあるのだが
前足をセットして、
後ろ足をセットして、
上半身をセットして、
そこから動く。
というときに、点呼で終わってしまって、
つながっていかないということがある、とか。
前足をセットしたら、そのまま。
後ろ足をセットしたら、そのまま。
上半身をセットしたら、そのまま。
その全体で動く。
ミルフィーユみたいに重ねる感じ。

だけど、パイをセットしたら、外して、クリームセットしたら、外して、また次のパイセットしたら、外してという感じになっていると、え?これは何?ってことになる。
いつまでもミルフィーユにならない現象。

自分でこのくらいかなーと思って、こんなもんだとやってしまうと、本当のおいしさを堪能できなくてもったいない。
おいしさを堪能するために道具を丁寧に扱って大事に使うことが本当に大事。

身体も自分の魂の器、道具であるとすれば、その道具、器をどれだけ丁寧に繊細に扱えるか?で、自分の気づきの深さ、広さ、繊細さも変わってくるというものだ。
西田幾多郎という哲学者が、身体論を展開しているのだが、

「身体といふものなくして、我といふものはない」
「身体があるから見ることができる」
ひとは常に身体をもつという制約の下に存在するもので、ひとが何かを考え、実行するのも身体の制約の下において可能だとした。
「私の手を使う」「身体が思うように動かない」などというように、ひとにとって身体は道具としての特性をもって存在し、物を道具として使用するときには、その物を身体の機能の延長としてとらえた。

西田幾太郎(1870-1945)哲学者https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E

ほんとそのとおりだな!と思った。

というわけで、おいしいミルフィーユを食べられるように、ひとつひとつ重ねながら、やる練習をしていこう。
これも、毎日の積み重ねが大事だ。
毎朝、リセットされるから。
どんな身体で動きたいかは自分で選べる。

では、またね。





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