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【14/1096】多様性について考える

14日目。さむい。急に寒くなりすぎではないか?もう暖房をいれたい。。。おとといは半袖だったのなんて、ウソのようだ。もう少し、なだらかに季節が移行してくれたらいいのになあ。

多様性について、考えている。
学術的にとか、社会的にとか、ではなく、自分にとっての多様性ということである。

多様性とは、人はみな、その存在価値に置いて等しく尊いという人権概念を核にして、さらに人はみな違うからこそ尊いという認識に立つ考え方のことである。

わたしにとって多様性というのは、同化しないということだ。
その場で私の存在を消さない、ということが多様性の第一歩である。

わたしはどうやらマイノリティなのだ、という自覚を持ったのは、20代のころで、その時に「マイノリティ」という言葉を得たことで、ホッとしたのを覚えている。
そうか、だから、こんなに大変だったのか、と。
みんなと同じにする、というのに大変だった。
同化する、均質化するために、一生懸命努力したが、大半は身についていない。

ひとりひとり違ってよい、というのは口で言うほど簡単ではない。

社会の構造が、みんな同じで、一緒のことができる前提で作られているからだ。その構造を作り直さなければ、真の多様性とは言えない。

そして、個人のなかにも多様性が必要だ。
個人の構造で、同一、均質化の中の優劣に囚われていると、そのように言動する。
個人の中の多様性を受容して、社会の中で多様性が受容されていく。
圧倒的多数の人が、自分の多様性を受容したら、社会の構造もそのように変わるだろう。

自分の多様性を受容するには、自分の内側を観察する力が必要である。
内省、内観というが、これがなかなか一筋縄ではいかない。
ほんとうに「ただ観る」ということが難しい。
どれだけジャッジしているか、観てみるとわかる。
そして、そのジャッジに容易に飲み込まれる。

自分が自分に向けるジャッジの刃は、他人に向けるものの比ではない。
他人には決して口に出して言えないことも、自分にはあからさまに言い続けていたりする。しかも、無自覚に、無意識化で。ジャッジは、多様な自分をゆるさず、同一化することを求めている。
それをやめる。

ジャッジをやめるとき、何が起きるか。

なんと怖いのである。

傷つけて、蝕んでいるものそのものなのに、それをやめるのが怖いのである。
怖いのがいやでやめないのだ。

だから、「勇気を出せ」と言うのである。

人間とはつくづく面白い生き物だなと思う。
怖くても勇気を出してやめると、その先にまったく別の世界が開ける。

ああ、そうか、と気づくことが広がる。
今までジャッジに使っていたエネルギーが、まったく別のものに使えるようになるからである。

多様性は違いを認め合うことではあるが、だったら差別する人も多様性の一部ではないか?と言う人がいたりする。
しかし、それは多様性ではない。

多様性とは、尊重が成り立つことが前提であり、共存共生するための社会を創造するための言葉だからである。
自分の意志や努力では変えられないものに対し、批判することが差別である。
差別意識は、誰でも持っている。差別してしまう自分を受け入れていないと、誰でも無意識に差別する。
自分が当たり前にでき、何も考えずに享受している権利を奪われている人がいるということに気づくことが、第一歩だ。

目の前にいる人を、ただ認識すること。
存在を認識する。
そこから始まる。

それでは、またね。



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