見出し画像

【映画鑑賞記録】82年生まれ、キム・ジヨン

韓国でベストセラー小説となったチョ・ナムジュ著「82年生まれ、キム・ジヨン」が原作で、映画化された。

原作のキム・ジヨンには顔がない。
キム・ジヨンという名前も、韓国で82年に生まれた女子の名前で最も一般的な名前が「ジヨン」だったからという理由で、この名前にしたそうだ。(チョ・ナムジュさんのインタビューより)
つまり、これは、特別な人の特別な話ではなく、ごく一般的な女性の人生の話である。

とはいえ、これは「韓国」の話でしょ?と思うかもしれない。
世界経済フォーラムの2019年の「ジェンダー・ギャップ指数」は、
日本は121位、韓国108位である。ちなみに、中国(106位)やUAE(120位)よりも下である。
これは、隣の国の話ではない。本を読んでも、映画を観ても、ほんとうにそう思う。そして、これが韓国では、ベストセラー小説になり、トップスター(チョン・ユミとコン・ユは韓国ではキャスティングするのに困難な人気俳優である)が出演する映画にできるということに、憧憬すら感じるほどだ。

というわけで映画の感想です。観ていない方は、ぜひ観てから読んでください。

<ストーリー>
結婚・出産を機に仕事を辞め、育児と家事に追われるジヨン。常に誰かの母であり妻である彼女は、時に閉じ込められているような感覚に陥ることがあった。そんな彼女を夫のデヒョンは心配するが、本人は「ちょっと疲れているだけ」と深刻には受け止めない。しかしデヒョンの悩みは深刻だった。妻は、最近まるで他人が乗り移ったような言動をとるのだ。ある日は夫の実家で自身の母親になり文句を言う。「正月くらいジヨンを私の元に帰してくださいよ」。ある日はすでに亡くなっている夫と共通の友人になり、夫にアドバイスをする。「体が楽になっても気持ちが焦る時期よ。お疲れ様って言ってあげて」。ある日は祖母になり母親に語りかける。「ジヨンは大丈夫。お前が強い娘に育てただろう」――その時の記憶はすっぽりと抜け落ちている妻に、デヒョンは傷つけるのが怖くて真実を告げられず、ひとり精神科医に相談に行くが・・・。

本を読んだ時よりも、映画はよりリアルに「わたしの物語」であると思った。

小学校低学年のしつこいスカートめくりや、からかい。
「男子は女の子を好きだからいじめたり、からかったりする」という理由で、無条件で「だから、許してあげなさい」と言われる。女子が男子にいじわるを言ったら、「女の子のくせに」という理由でものすごい怒られたのに。
女の子は「にこにこしてなさい」と言われて、にこにこしていないと、不細工だ、ブスだと言われ、にこにこしていたら、勘違い男にストーキングされる。「だって笑ってくれたじゃん」と身体の大きな男子生徒に後をつけてこられて、怖くないわけがない。
それを、父親に言ったら、「暗い道をひとりで歩くな」「スカートなんか履くからだ」「だから気をつけろと言っただろう」と、女の子のせいにされる。
いつもいつも、息子を優先されて、同じ子どもなのに、息子にはプレゼントがあり、自分にはない。ジヨン氏は、弟の持っている万年筆がほしかったのに、それは弟のものでジヨン氏のものにはならない。
わたしは、「娘はいらなかったんだ」と息子が生まれなかったことをずっと嘆く父親に、女に生まれたことを疎まれていた。男と女となにがどれだけ違うか?

うっすらと、いつも苦しい。
苦しいことにすら、気づけない。なぜなら、苦しくないときがないから。このくらいの苦しさが当たり前なのだと、ずっとその苦しさの中で生きていくしかない。
でも、その苦しさは、苦しさだと認めてもらえない。
なんなら、あなたは、幸せなのにどうして?みたいな感じ。
優しい夫がいて、かわいい子どもも産んで、家や食べるものに困ることもないし。
だけど、ただでさえ、うっすらと苦しいのに、子どもを産んで、子どもを育て始めたら、もっと苦しくなる。子どもは可愛いけれど、勝手に育ってはくれない。
でも子育てを大変だとおもうことにも、罪悪感を着せられる。そう思う母親は、母親失格だという世間からの目が心をちょっとずつむしばんでいく。
できるだけ自分で育てたい、でも社会にも出たい、という願いを存分にかなえるための制度は整っていない。男性が苦しくないわけではないが、女性の苦しさとは種類が違う。
そのことを、とてもいい人であるデヒョン氏は、その苦しさはわかってくれない。
デヒョン氏がなんにも苦しんでないと言いたいわけではない。けれども、女性の苦しさをわかるようには育っていないし、そんな社会の構造になっていないのだ。

キム・ジヨン氏は、時々、完全に別人のようになる。
それは、死んだ祖母だったり、母だったりする。ときには死んだ女の先輩だったり。
本でも映画でも、うつ病のように扱われているが、これはわたしは解離の症状だろうなと思った。
そのくらい苦しいのを生き延びるために解離している。

ジヨン氏の元の同僚のヘスは、すごくフラットでよかった。独身のまま会社で働きつづけているジヨンと、友達のままでいられる人。
でもそのヘスも、会社のトイレの盗撮事件で、とても苦しむ。警備員が女子トイレに仕込んでいた盗撮カメラの映像が、ポルノサイトで共有されていたというだけでもおぞましいのに、それを、同じ会社の男性社員が見つけたのに、通報するでもなく、なんとほかの男性社員とシェアしていたという事件。盗撮した犯人もだけど、同僚たちをもう信じられなくなってしまうことの悲劇。性犯罪に対する加害者と被害者の世界の違いに、どのくらい気づけるのだろうか?

自分のやりたい仕事をやるためには、夫が育児休職をとるのが一番よいと思っても、姑から猛反対される。
夫より多く稼げるわけでもないし、夫のキャリアに影響することを考えたり、子どもの将来のことを思ったら、自分の意見をひっこめたほうが、みんなの幸せだ。そうやって、女たちが引っ込める社会を作ってきたんだなと思う。韓国と日本では多少の法制度は違っても、ベースは同じだなと思う。

母がジヨン氏に祖母が乗り移ったような様子を目の当たりにするシーンは、すごくよかった。
ジヨンの口を借りて、自分の娘に謝る母と、そのジヨンを心配する娘であり母であるミスク。

弟が姉が苦しんでいることを知って、父に姉の好物を尋ねると「あんぱん」だという。あんぱんを買って、姉の家に遊びにいくと、「あんぱんは好きじゃない。あんこを除けば食べられるからいいわよ」と言う。「あんぱんが好きなのはあんたでしょ。わたしはクリームパンが好きなのよ」
弟が、帰り際に「今度はクリームパン持ってくる」と言う。このシーン、すごくよかったなあ。弟は、姉の苦しみの一辺は理解して、そして、好きなものを覚えようってしてくれていることがよかった。
万年筆をあげたのは罪悪感がうずいたんだろうって思うけど。

映画ではカウンセラーに、そのうっすらとでも、確実にある苦しさについて
「わたしの能力がないから」しかたないと言うシーンがある。
それが、ほんとうに、呪いだと思った。
わたしも、ずっとそう思っていた。
頭ひとつ、抜けるだけの能力がないから、ここで苦しむしかないのだ、と。
でもそれは、「あなたのせいではない」のだ。

小説と映画では、ラストシーンが違うので、いろいろ意見があるようだけれど、わたしはどちらのラストシーンも、あると思う。
それでも映画のラストの、ジヨンとデヒョンの笑顔はやっぱり希望につなげたいというそういう願いなんだろうと思って、ちょっと泣けた。

1096日連続毎日書くことに挑戦中です。サポートしてくださるとものすごくものすごく励みになります◎ あなたにも佳いことがありますように!