失敗することは、何でダメなんですか?
今日、子どもの話をしていたら、はらぺこあおむしの著者、エリックカールさんの言葉を思い出しました。
この言葉通り、こうなるだろうと予想できることより、『まさか〜』とビックリするようなことほど、印象に残っていませんか?
『予期せぬ出来事』が多発する子どもとの関わりは、驚きと学びの連続なんだなーとしみじみ思いました。
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子どものころから大好きだったエリックさんの絵本。
長女は王道のはらぺこあおむし派で、何度も何度も読んで〜とお願いされ、今はチビ2人の定番になっています。
もう10年以上読み聞かせしているのに、なぜか飽きのこない絵本。
まだまだ孫ができても、飽きることなく読むんだろうなと容易に未来がイメージできる。
私は、絵本そのものだけでなく、エリックさんの言葉も大好きです。
長女と息子が何か制作を始めると、この言葉を思い出します。
何かイメージしているものがあって、それに近づけようと失敗を恐れて、制作が進まない長女。
失敗という概念のない息子。思うままにささっと作り上げる。
そして、長女は、常に形あるものにとらわれている様子。
例えば、犬を描くとします。弟の作品をみて、『そんな色の犬はいないよ!変なのー。』と、実際の犬を模写するという概念が強くなっていることに気がつきます。
私は、犬を描く。としか言っていないので、息子が何色で描こうが、実際には存在しない形の犬であろうが、それが彼にとって完璧な絵だと受け取ります。
大人になるにつれ、『こうでなければならない』という概念を受けつけられ、頭で考えてしまって、自由に表現することを忘れてしまう。
それって、なんか勿体無いなーって、いつも思います。
もっと自由に表現して、その個性を尊重し合うことはできないのか?
そうすれば、その固定概念にとらわれず、もっと面白い枠を超えたものがどんどん生まれていくのではないかと妄想しています。
固定概念を打破するには、誰になんと言われてもぶれない自分軸が必要。
それと、予期せぬ出来事が関係してくる。
当たり前が、当たり前でなかった時、新たな視点が生まれる。
例えば、白米の入ったお茶碗に、お線香を立てるようにお箸を立てる。
祖母にそれは、死んだ人のためのご飯だと言われて、やってはいけないことだと思っていました。
でも、タイ人の友達にご飯を作ってもらった時、箸が立って出てきて、『これは、、、』と戸惑って聞いたら、ご飯を盛り付ける一般的なやり方といわれ、ハッとしました。
国超えたら、自分の当たり前は当たり前でなくなる。
簡単に書き換えられると言うこと。
もっと俯瞰した目で物事を捉えることができたら、失敗も失敗でなくなるはず。
そしたら、自由に表現することを恐れなくなるのかなーと妄想中です。
Mayumi🦩