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不安と、手づくりの希望と

「不安をペットにしたい」と、1週間前の私は言った。でもいま、その「不安」は、できたてほかほかの小さな「希望」をいっぴき、連れてきている。

もう、たぶん誰もが「あ、これはずっとは続けられないな」と思い始めている。
「誰も安全を保障してくれないな」
「何が正しいか、自分で見極めるしかないな」
と。

ふつうひとは、「安全じゃない」から不安になる。でも、こうなる前にも、そもそも絶対の安全なんて、なかった。原発も、地震も、森林火災も、噴火も、洪水も、交通事故もあった。国が専門家に定義させた「安全」が、本当は安全じゃなかったことは、いままでにもたくさんあった。

でも、気がつかないふりをしていた。「あなたの番だよ」と言われなかったから。

以前のように、「誰かに安心させてもらいたい」と思うのは、もう無理なんだろう。そもそも、誰かに安心させてもらおうとする方がまちがっていたのかもしれない。私たちも不安であたりまえなんだった。本来の状態になってしまっただけなんだ。むしろ、私たちはいま、ちゃんと危機に不安を感じている。いまは危機でも、未来からみたら、私たちは成長とか、進化を遂げているのかもしれない。

そんなふうに感じて、ウイルスとしばらく共存する覚悟がついてきたら、「不安」の顔色はあまり気にならなくなってきた。絶対の安全も安心も、もとからないのだ。だから、自分のこころは自分で守らなくちゃと思った。いままで培ってきた生命力と感性で情報を選び取って、どう暮らすかは自分の意思で決めたい。そう感じるにつれ、「不安」の顔はどんどん柔らかくなった。

「不安」の表情が和らぐと、少しずつ、本来の楽観的な自分が戻ってきて、未来の色が、陽の昇る前の稜線みたいにほの明るくなってきた。そして、片足立ちでグラグラしていたきもちが、天から下がる糸に頭から釣られているように、まっすぐに安定するようになった。こんなふうに、自分のこころを自分で選び取って、「希望」を手づくりする底力が、いま試されているんだ。あ、でも実はこれまでもいつだって、そうだったそうだった。

私たちが見たこともない未来をようこそと迎えるために、いつか会いたい人ににっこり笑って会うために、「不安」はそのままで、でも、手づくりの小さな「希望」を携えて、ひとり+いっぴき+もういっぴきで、静かにおうちで過ごしているのが、いま、ここだ。


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