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転職は日本経済を救う02 1990年2月 29歳

1990年といえば、私は大手印刷会社に入社して6年目。
会社が公募した、21世紀の企業像を描く2年間限定のプロジェクトに参加していた。
東京大阪の営業、研究、事務と様々な部門から選ばれた20人が集まるプロジェクトだった。
世の中はバブルの絶頂だったが、マッキントッシュSEが一人一台あてがわれたこと以外はその恩恵にはあずかっていなかった。
まあ今思えば、そういうプロジェクトがあること自体がバブルだったかもしれない。
21世紀の新規事業、既存事業、企業理念について、20人で侃侃諤諤議論しながら、企画した。

そんなさなかに父が死んだ。

一級建築士だった父は、自宅もしくは自宅近くに自営の事務所を構えていた。
空地に建売住宅を建て、普通のサラリーマンの年収ほど税金を払う年もあれば、石油ショックの年は年収ゼロだったと言っていた。
そういう浮き沈みの激しい仕事でストレスがたまったか、大工などの職人と付き合う中で酒タバコが過ぎたか、40代で心筋梗塞を患い、以後は仕事を小さくして、無理のない働き方をしていた。
所有していた松戸の土地を担保に借金をし、株を買い、1989年12月末の日経平均最高値を喜んでいた。
そんな父が、1990年2月、節分の翌日、ゼネコンが建設する会社寮問題を議論する集会に地元民として参加し、発言中心筋梗塞が再発し、そのまま逝ってしまった。
入院中の母と、世田谷の家と松戸の土地と株と借金を残して。

父の話を長々書いた。
それがどうした、という読者もいるだろう。
しかしこれが私の転職に大いに関係してくる。
お付き合いいただけるとありがたい。

【入社早々、会社員でいることの不安】

私はこの頃、会社員であることに漠然とした不安を抱えていた。
入社直後、配属希望は別の部署だったが、適正テストの結果システム部門に配属になった。
最初の数年こそ、これからの世の中に必須なITスキルが身に着き、全国各部門とコミュニケーションの取れる立ち位置に充実した日々を送っていた。
しかし数年でそうした仕事の繰り返しに慣れ、飽きてしまった。
飽きたと同時に、このままでは会社の中でしか生きられなくなる、と
不安を抱え始めたのだった。
そしてあがいた。
具体的には、会社の補助で中小企業診断士の勉強を通信で始めた。
2年で一次試験に合格した。
そんなさなかに公募があった21世紀のプロジェクトに手を挙げ、論文を書き、合格して、部署異動をしたのだった。

【自営業者の父】

この不安、父の影響が大きいと、後になって考えた。
自営業者として働く父の姿と、会社員として働く自分の生活の違いに、
違和感を覚えたのだ。
家庭、子育て、将来展望、何か違っていた。
会社の中のシステム部門という狭い世界でこの先も生きていくのかと。
つまらないなあと。

そうした中で父が死んだのだ。

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