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通知表は受け取らない。「またね」をもらって、「ありがとう」を渡すだけ。

2年前3月31日が、よほどトラウマだったのか。2年前の記事を引用しながら、昨日こんなnoteを書いた。

2年前は、本当に露骨に見えた。悪意も何もなかったから、余計そう感じた。それに比べると、今年はそれぞれがそれぞれで別れを惜しんでいたように思う。私が知らないだけだろうか。人が変わって雰囲気が変わったからだろうか。厳密にはよくわからない。

私がどうにもこだわっている「惜しまれる」という案件について、今は結局「繋がっている人がいるタイミングか」だな、と思っている。

誰と繋がって、誰とコミュニケーションをとって、誰に心を砕いて、誰に貢献したか。それだけだ。誰と信頼関係を築いたか。それだけだ。

2年前はこんなもっともらしい結びを書いている。これには現在の私も同意する。足りない要素は「その誰かがそれだけそこにいるか」だ。周囲は変わる。メンバーは変わる。そんななかで、すべての人と同じくらい、なんて器用な真似は、諦めたほうがいい。というか、無理だ。

たとえば、異動する同僚の"彼女"。多くの人に激励され、「がんばってね」と声をかけられていた。その「がんばってね」「またどこかで」と、私と彼女が交わした「またすぐ会おう」は、多分種類が違う。

種類が違うやりとりができた。それだけで十分だ。それはきっと、私がいなくなる時にはできないかもしれない。だって、そういう人を、既に見送った後かもしれないから。

だけどそれは、私が散々書いてきた「通知表」とは、全然別の話だ。また会う「またね」。それが1つ、誰かとの別れの中であればいい。

そう思えたのは"彼女"が手紙をくれたから。それだけでここまで心がほぐれるんだから、私ってチョロい。手紙ってすごい。

4月から、また1年が始まる。

感謝はちゃんと形にしよう。手紙やギフト、言葉。きちんと形にして相手に伝えよう。相手の気持ちはわかってるつもりでも嬉しいし、わかってなかったりもするから。「こんなに思ってくれてたの?」って、やっぱり思うから。

いつかいなくなる時も、それまでのこれからも。

感謝も謝罪も労いも全部。気付いたら形にしながら、自分として生きていけばいいや。

それを相手がどうするかは、私が決めることじゃない。


私にはもう「またね」があるから、それでいい。


4月1日があと5分。

新年度よ、どうぞよろしく。




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