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⑮墓場まで持って行くはずの話し

今の名前も子供の頃の名前も同じ。
分かりやすいでしょ?ww
数年間は違う名前になってたけど、その名前は好きじゃなかったし、すぐに戻しちゃったので。
父親の事は子供達には話さないと決めていた。
だって、自分の父親がそんな人だと聞かされたら悲しくなるだろうと思ったから。
だからこれは「墓場まで持って行く」と決めていた話し。

プチ家出の後、なだめられて家へ戻ったものの家庭内は冷え切ったまま。
1つ引っかかってしまうと、今まで流せていた事も流せなくなって来るもので、色々な事がそこに少しづつ溜まって行くんですよね。。。
それでも「子供達のため」と思いながら生活は続けましたが、夫にも義母にも不満と不信が消えなくなり、部屋を別々にして家庭内別居のような生活をしてました。
上の子が小学校へ入学し、下の子が幼稚園の年中さんになった頃。
先代の父親から受け継いだ呉服屋の経営がだんだんと悪くなって行きました。
呉服屋と言っても、その頃はほとんど洋服がメインで、婦人服、紳士服、下着類の他に地元の中学校と高校の制服も扱ってたので入学・卒業シーズンに一緒に使ってもらえるように贈答品なども置いてました。
どこの小さな街も同じだと思いますが、大型店舗の進出や近隣の大きな街への交通の弁が良くなり、地元の店で買い物する人が減り個人経営の小さな店舗はどんどん減って行き、ちょうどバブル崩壊の煽りを受けて大手銀行も潰れるような不況の時代になっていました。
お店も同じで、売り上げが伸びず仕入れたばかりの物でも割引しないと売れなくて、ほぼ原価で売れればまだ良いほう。仕入れ金額よりも安くしてでも売らないと収入にならない事も多く、当然赤字になって行きます。
それでも新しい商品を入れないと、ずっと同じ商品だけが並んでいる事になってしまうので、定期的に新しい商品は入れなきゃいけない。目に見えるほどの悪循環です。
当然、売り上げよりも仕入れ金額の方が多くなってしまう上に店舗の維持経費などもあり、どんどん支払いが出来なくなり、その度に銀行から借り入れをするようになって行きます。
初めのうちは銀行も貸してくれるものの、だんだんと限界が来て追加の担保や保証人が必要となり毎月のように月末になると資金繰りに困っては、私も何ヵ所もの銀行へ行かされ保証人として書類にサインをさせられるようになり「保証人になるのは嫌」と言っても、それが無いと当然、お給料も出ないので「食費や生活費も困ることになる」と言われれば、それ以上断る事もできず、何ヵ所もの保証人になるしかありませんでした。
その時、持っていた全てのクレジットカードのキャッシングで借りられるだけ借りて支払いをしたり、それでも足りなくなると「明日までに用意出来ないと、この店がなくなるんだ!」と言われ、仕方なく実家の親から借りた事もありました。
先代だった義父が残していった土地をはじめ、売れる物は全て売りましたが、それも一時しのぎでしかなく・・・長年務めてくれていた従業員も皆んな辞めてもらいました。
ある日、事務所に呼ばれて行ってみると見た事ない2人の男性が来ていて、また保証人になるように言われました。
銀行員とも違う雰囲気で随分と良い事ばかりを話していて変な感じがしたのですが…本人は、とにかく「これで助かる」と喜んでいて、指定された場所に署名すると、正面からと左右横から3枚の写真を撮られました。
そうです。サラ金と同じ「商工ファンド」でした。
後から分かった事ですが、1度契約したら2回目からは増額の手続きだけで簡単に貸してくれたらしく3回も借りていたそうです。

もう良い加減、限界だと思った私は、お店を閉店するように説得しました。
先代が作り上げたお店を閉じる事は、本人はもちろん義母も中々納得しませんでしたが、信頼していた商店街の先輩などに事情を説明し、一緒に説得をしてもらって、ようやく現実的に継続して行く事は無理だと理解してもらい、閉店する事が決まり、閉店セールでは残っていた商品だけじゃなく、トルソーやミシン、什器まで売れるものは全て売りましたが、今までに借りた金額の3分に1にもならず大きな借り入れが残ってました。

子供達は、小学2年生と幼稚園の年長さんになっていました。
私は、生活費の分だけでも収入を得るため仕事を探し、ちょうどその頃地元にできたファミリーレストランで働くようになりました。
ですが・・・当の本人は「残務整理」だと言って毎日事務所にいるだけ。
事務所で何かしては、自分の部屋で楽器を弄っての繰り返しで一向に仕事を探そうともしません。それどころか夜になると出かけるようになり、朝になっても帰って来ない時もありました。
「どうして仕事をしないのか?」そんな状態で「どこへ出かけているのか?」
顔を合わせれば喧嘩ばかりの毎日になりました。
「もうこれ以上は無理だ。。。」そう思い、離婚したいと言いましたが「子供達と離れたくないので離婚はしない」の一点張り。
実家の親にも「離婚したい」と話しましたが「子供達が居るんだから我慢しなさい。」と反対され行く所も無いまま1ヶ月が経った頃、動悸、心拍の異常、呼吸困難と目眩がひどくなり病院へ行くと「心身症から来る不整脈」もう心も身体も限界に来ていたのでした。

9月になった、ある日。
幼稚園から帰って来た次男をバス停まで迎えに行き、手を繋いで家まで歩くうちに涙が出始めて、我慢しようとすると動悸と目眩がひどくなり、なんとか家の中には入ったものの涙が止まらなくなってしまい、幼稚園の園服を着たままの小さな息子を抱きしめながら声を出して大泣きしてしまいました。
息子はビックリして「どうしたの?どこか痛いの?どうして泣いてるの?」と言いながら困って泣きはじめてしまいました。
「このままでは、子供達にも良いことなんて無い。」
「この子達を守れるのは自分しか居ない。」
その思いだけで、家を出る事を決めました。
次の日、私は誰にも言わず1人で格安のアパートを探しました。
上の子が通う小学校の校区内で、月35,000円。2DKで築年数50年以上の木造アパート。
ボロくて小さいけどお風呂も付いてるし、そこが1番安い3人で暮らせる部屋でした。
本当なら遠くへ行きたいとも思いましたが、転校させるのは可哀想だったので家からは少し離れた場所にあった部屋に決めました。
借金ばかりで、手元に残ってるお金もなかったので、母にだけその部屋の事を話し部屋を借りる分と数日間の生活費だけのお金を借りました。
ファミレスの仕事は時給で働くパートだったので、少しでも勤務時間を長くできるように次男の幼稚園に行き、これからは帰りのバスには乗せずお迎えに来るまで預かってもらえるようにお願いし、承諾をもらってから家に帰り、とにかく持って出られる物を荷造りしました。
そうなると、家に夫が居ないのはちょうど好都合で、子供達の物を中心に車に入るだけ積み込んでおきました。
家を出ると決めて3日後。
朝は子供達にも何も事情を話さず、いつも通りに学校と幼稚園へ送り出しました。
夫は朝チラッとだけ顔を合わせましたが、何も言わずにいつものように出かけて行きました。義母は、自分の部屋に居たのを確認しましたが声をかけませんでした。
キッチンの片付けだけをして、部屋をぐるっと見回してから一呼吸だけ大きく息を吐いて「よし!」と、自分に気合を入れて・・・
用意していた物だけ持ち、荷物を積んでおいた自分の車で2度と戻って来ない家の玄関を出たのでした。
義母と会ったのは、その日が最後でした…。

〜つづく〜


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