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世界は贈与でできている

もしかしたら私、贈与の達人かもしれない…!

私の贈与歴は小学3年生まで遡ります。しかしそれは決して前向きな、何か善いことをしたいと思って始めたことではなく、罪悪感から逃れる為に、やむおえずたどり着いた苦肉の策でした。

「ありがとう」を貰う為の善行

ある日、前の席の子が消しゴムを落とした事に気づかず、別の席の子のところへ遊びに行ってしまいました。

私はこの機会を逃すまいと、すかさず拾ってその子の机に置き、おまけにその子のところへ行って「消しゴム拾っておいたよ」と伝えました。

当時私は友達が少なく、関わり合いの少ないなかで“感謝される”ということは殆ど皆無でした。ありがとう、と言われている子が少し羨ましかった。

そんなわけで、お礼を言われる為に消しゴムを拾ったのです。相手の子は屈託の無い笑顔で、最高の「ありがとう!」を言ってくれました。

その時の衝撃!!何かとてつもなく悪い事をしてしまったような感覚!その瞬間とても大きな罪悪感がのし掛かり、「もう感謝されたい為に善い事はしない!」と固く決意しました。

その後私はこの決意を死守し、結果、感謝・称賛・承認などにやり甲斐を感じない人間に成長したのでした。

哲学テクノロジー

従うべきマニュアルの存在しないこの現代社会を生きるためには、哲学というテクノロジーが必要なのです。 p8

哲学は好きです。一見、実用性とは程遠いジャンルに思えますが、その考えを根付かせることができれば、少しずつではあるけれども確実に、人の行動を変えることができます。

腑に落ちる、本質的に理解するということができると、人の行動は自然と変わるものだと思います。

しかし、現代では腑に落ちる為の経験をする機会が少ないのかもしれない。内田樹さんの言う“葛藤するという特権”を享受しにくいのかもしれない。

だとすれば確かに、哲学がテクノロジーとして実用性を持つ、そして私達が積極的にそれを使うというのは自然な流れに思えます。

意外と難しいんですよ

お金で買えないもの、という否定的定義。たとえば「猫」はたしかに「犬ではないもの」ですが、それで猫が十全に定義され、説明されているわけではもちろんありません。(中略)なのに、なぜ「お金で買えないもの」という言い方に僕らは満足してしまうのでしょうか? p19

前に、子供達と幼児教室に通っていたことがありました。その時に出た課題で、数枚の絵カードの中から仲間外れを探すというものがあったのですが、これが意外と難しい!

仲間外れである理由を「これだけ〜じゃないから」ではなく、「〜だから」という形で答えなければいけないので、そのモノについてよく知っている必要があります。

そのものの特徴を的確にとらえ、しかも複数パターンの答えを用意するのは大人でもなかなか難しい。

そんなわけで、「〜じゃない」という理由付けで理解した気になってしまうというのは、よくあることなのです。

部分的に交換でもよい

親は、愛という形で子に贈与をします。 p28

おそらく、早期教育(幼児教育)の功績の1つは、無償でやることが当たり前とされている”育児”というジャンルに対して、”部分的に交換でも良い”と合理的に親たちを納得させた点であると思います。

親が将来ラクをするために早いうちから教育を施すというのは、なんだか交換的な発想な気がしてしまいます。

しかし彼らは「子供の将来の為になるし、親だって楽できるのだから誰も損しませんよ。お互いにとって特なのだから、交換でもいいんじゃないですか?」と言っているわけです。

これは画期的!!

でもなんとなく、“交換も贈与の一部ですよ”みたいに言い出した気がしたから、私は教室を辞めました。

忍者のように忍び、犯罪者のように実行

だとすれば、贈与において最大の関心事は「どうすれば贈与を受け取ることができるのか?」という問いに集約されます。(中略)贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。これは本書の贈与論において、決定的に重要な主張です。 p113

先程、私は「感謝される為に善行をするのをやめた」と言いましたが、善行自体をやめたわけではありませんでした。

むしろ善い事をすることにハマりました。それはとてもスリリングだったからです。つまり、“感謝されないように善い行いをする”ということにハマったのです。

感謝されないようにする為には、私がやったことは絶対にバレてはいけません。しかし私が仕掛けた変化には気付いてほしい。

これにはかなりスキルが要求されます。誰も見てない隙にコソッとやる。完全犯罪です。

そして誰か気付かないかしらとじっと待つ。誰かが気付いてくれて、しかも私がやったとバレなければ万々歳。心の中でガッツポーズです!

そもそも私の行いに気付かれないことが多かったですが、それでも今まで私の完全犯罪は一度もバレたことはありません。

疲弊せずにゲームに参加する方法

だから他者理解において僕らがやるべきは、もっと長い期間、一緒にゲームに参加しながらゲーム全体を観察して「ファール」の意味を少しずつ学んでいくように、その他者がこれまでの人生の中で営んできた言語ゲームを少しずつ教えてもらいながら、一緒に言語ゲームを作っていくことかもしれません。 p136

一度ルール説明だけ聞いて満足する、やった気になる、というのはよくあることでしょう。

これが本当にただのゲームであるなら大して問題にならないでしょうが、対人関係上でやってしまうと、かなり致命的です。

しかし人それぞれの状況を自分も同じようにプレイする、というのはなかなかにハードルが高い。根気と体力が要ります。

疲弊せずに相手を理解するには、ゲームのプレイ内容を実況してもらうのがオススメです。

ただし、相手が解説疲れしないように配慮する為には、それなりのテクニックも必要かと思います。

コツは焦らないこと。数回の実況を聞く、またそれなりの回数を聞かせてもらえる関係になれば、見えてくるものがあるはずです。

スピリチュアルにも知性が必要

届いていた手紙の封を開けること。その手紙を読むためのヒントを見つけること。 p118

スピリチュアル系の台詞で「そこにある愛に気付きましょう。」みたいなものをよく見かけます。

大事なことは、愛と知性はセットである、ということです。

スピリチュアルにハマって上手くいかない人は、この点を見逃しているような気がします。

本当の意味での“科学的”とは

人は“科学的”と言われれば、かなりの確率で信じてしまいます。私もそうです。

しかし、以前読んだ「「科学的」って何だ!」(ちくまプリマー新書)によれば、科学とは“その認識で概ね反論が無い。理論的に誰もが納得できるもの”を科学的と呼ぶようです。

つまり、今は世界中の人が納得してるけど、もしかしたらこの先変更されることもあるかもしれない、ということ。

それに加え、科学的といいながらエビデンスの信憑性が甚だ乏しいものが山ほどある、ということ。

先日読んだアトピーの本では、実証実験データの信憑性を5段階ぐらいに分けて、最も低く、信憑性がほぼ無いものに「専門家の意見」と書かれていました。

ワイドショーなどで見る専門家の意見は、ほぼ意味が無い、ということですね。

また、統計学の本を読めば、プロの手にかかれば統計データを操作するぐらい、お茶の子さいさいであることが分かります。

こんな世の中じゃ、ポイズン。やはり強く生きてゆくためには教養が必要不可欠であると思えます。

学問越境

つまり、思考の枠組みがある程度強固なものでなければ、そもそも問いを立てることができないということです。 p159

以前ある人が、「前に進むことができず、3年ほど色々な本を読みながら燻っていた。今思えば、早く人と交流し、話を聞けば良かった。あの3年間はムダだった。」

と言っていたので、私は声を大にして申し上げました。「決してムダではありません。その蓄積があったからこそ、今あなたはそうして沢山のものを受け取ることができているのだから。」

思考の枠組み=脳内の知識ネットワーク、を広げるには、ともかくインプットが重要です。

しかし私は1つの事を深く徹底的に学ぶことが、ネットワークを広げることに直接繋がるとは考えません。

“知識の蓄積”と“知識のネットワークを広げる”ことは全く別物だけれど、知識の蓄積無くして知識のネットワークが広がることはない。

私が心掛けていることは、ズバリ、学問越境。平たく言えば、“ニワカ”というやつです。

ある程度その物事の概要が分かれば、次にいく。どんどん別ジャンルの事柄を調べていくわけです。

すると、ある時、点と点が結ばれる。結び目から新しい糸が出て、別の点と繋がる。または、別々の小さなネットがある日突然繋がることもあります。

なぜこんな事が起こるかと言うと、「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)の冒頭でも触れられている通り、もともと全て繋がっているからです。

私の周りにいる賢くスマートな人達は、みんなこういうことを意識的、無意識的にやっています。

“問いを立てる”ことは、贈与の贈り主、または受け取り人になることに繋がります。

そう考えると、私も素子少佐のように電脳の海に飛び込んでみたいと思うのです。

観察力+優しさ=修行僧

「きみは見ているだけで、観察していないんだ。見ることと観察することとは、まるっきり違う。(中略)」(「ボヘミアの醜聞」15-16頁) p164

観察力があると、いろんな事に気付くことができます。あー、、、彼はあの子が好きなのね、とか。

私の観察力は、小さい頃に通っていた“お絵描き教室”で身に付きました。

色を混ぜる。立体を組み立てる。静物画。写生。頭の中のイメージを目の前に3Dにして創り出す。

リラクゼーションにもなりますし、是非トライしてみてほしいです。

人が本当は何を求めているのか、素直に言ってもらえるケースは稀だと思います。それに、本人もうまく言葉にできない場合も多い。

そんな時は自分の観察力だけが頼りです。広い視野を持ち、あらゆる可能性を考慮し、全ての経験と知識を照らし合わせてトライ&エラーを繰り返す。

非常に忍耐と根気がいる割に、分かりやすく感謝されることは滅多にありませんし、結果が出なければ全てが無に帰す場合もしばしば。

実は私がやっている事は見当違いなのかも。私がしている事は無駄かもしれない。そんなことが頭をよぎりっぱなしです。

本文の中に“贈与は祈りだ”とありますが、本当にその通りです。

祈り続けることを諦めず、地味な苦行を繰り返す。そんな私の人生。

何が怖いのか分からないのが怖い

世界の論理の歯車がたった一つ狂うことで、この世界全体が悪夢へと簡単に変わってしまうことを教えるためです。それはつまり、この世界が安定し、昨日と同じような今日がやってくるのは必然ではないことを伝えるためではないでしょうか。 p176

私が好きな怪談師さん(落語や講談の怪談版)に石野桜子さんという方がいます。

彼女は、幽霊や妖が出てくるというより、人の心理の闇が怖いというような、いわゆるヒトコワ系の話をされていて、YouTubeにも動画がたくさんアップされています。

その中の、「あの女は知っている」という話。

これは彼女が過去に重度の精神疾患を患い、精神病棟に入院していた時の話です。

その動画のコメント欄を見ていた時に、「何が怖いのか分からないと言ってる奴がいて怖い」という書き込みを見つけました。

どういうことかと思い遡って見てみると、確かに、一定の割合で「どこが怖いのか分からない」「話が分からない」とコメントしている人がいる。

ゾッとしました。つまり、“自分にもこんな事が起こりうるかもしれない”と想像する事ができない人達が、一定数いるということです。

きっと彼らは夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでも何も感じないし、カミュの「背教者」はただのスナッフでしょう。

ああ怖い怖い。

ネガティブケイパビリティ

ネガティブケイパビリティという言葉を知っていますか?私は友人からの紹介で、最近知りました。やはり持つべきは友。

ネガティブケイパビリティとは、不安や悩みなど、ネガティブな感情を抱えたまま堪える力の事を指します。

我慢というのとは少し違って、自分の中のネガティブなものと前向きに付き合ったり、少し距離を取って眺める、というような意味合いです。

使命感という幸福を手にすることができるのです。 p242

さっき私は、観察力を頼りに贈与を繰り返すことは苦行だと言いました。

正直、感謝してもらえない事は大して苦ではありません。というか、全然気になりません。贈与行為がしんどくなる理由は別にあります。

それは、他者から見れば私が何もしていないように見える、ということです。

私は自分の仕事を全うしているつもりだけど、他の人からしたら大して何もしていないように見えてしまう。

心の内でバカにしたり詰ったりするのは自由にすればいいけど、声に出して「何もしてないじゃん」「役に立ってんの?」と言われるのはかなり辛い。

使命感という幸福があっても太刀打ちできるか、、、体感的にはイーブンな感じです。

そんな時は、ネガティブケイパビリティ。

自分を少し落ち着かせて、慰める。慰める方法はいくつかあって、1番手っ取り早いのは眠ってしまうことです。

目が覚めると、飛躍して明後日の方へ行っていた思考も、こちらに舵を切り直している。

そんな風にして、毎日をやり過ごしています。

世界は贈与でできている

実は以前に、カウンセラーできるんじゃない?と言われた事があります。

アマチュアでカウンセラーをやっている友達からそう言われたのですが、「そんなの無理よ(謙遜)」「(少し逡巡して)うん、できないね(ガチで)」と返しました。

自信が無いというのはもちろんありますけど、それ以上に、そんな事でお金が取れるとは全く思えなかったからです。

決してカウンセラーという仕事をバカにしているわけではありません。

その彼女はカウンセラーになる為に、お金をかけてセミナーに通い、時間もたっぷりかけて勉強してきました。

かたや一方、私の方はといえば、自分が知っていることはすべて図書館でタダで読みかじったものばかりです。

時間こそかかったかもしれませんが、全部タダです。しかも貴重な文献を読むべく遠くの図書館に行った、なんてことは一回もありません。

タダで知ったことでお金を取るなんて、おかしくないか?と感じたわけです。

以前から私は、自分が持っている技能などをお金に換える、ということを避けてきました。

周囲の人が自分の知識や技術をどんどんお金に換えていく様を見て、私も何かやってみようかな、と思うけども、どうしてもできない。

全然食指が動かない!生活力無さすぎ!と自分でも思います。

思えばアルバイトをしていた時も、別にお給料にはならないけども、時間外でちょっとした雑用をしたり、みんなで使う備品を自腹で購入したりしていました。

そうだ、私ってそういう女なんだ。

この本を読んだ今、私の持ち物はほとんど贈与によって得られたと感じられます。

特に知識。図書館は偉大な知識の宝庫です。しかもそれを無償で、誰でも利用することができる。

それから友人達。私に善きタイミングで善きものを差し入れてくれる人達。

これらは贈与以外の何ものでもないでしょう。

贈与によって得たものは占有せずに、できるだけたくさんの普く人々と共有するのが私のルールです。

最後に、この本を紹介してくださった気の良いマスターに感謝を込めて。ありがとうございました。



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