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「死にたい」って便利な言葉

とても疲れていたある日の夕方、気付いたら「死にたい」と呟いていた。

その数週間は、ある悩みがあって散々アタマを使っていたのと、件の日は午前中から用事があって出ずっぱりだった為に、相当疲れていたのだろう。気が付いたらどんより曇った空に向かって「死にたい」と呟いていた。

呟いた瞬間、自分でもギョッとした。
ティーンエイジャーでもあるまいし、軽率にそんなことを口に出す自分に呆れてしまったが、しかし次の瞬間、急に頭の中がスッと軽くなる感覚がした。

軽くなったというか、それまで頭の中で一生懸命自分に説明しようと頑張っていたのが、その義務から解放された感じがしたのだ。
その事実を知ったとたん、「死にたい」ってアタマを強制終了できる便利な言葉だなと思った。そしてその後、家に帰り着くまで「死にたい」という言葉が頭から離れることは無かった。

「死」というのはとても抽象度の高い言葉だし、汎用性も高いが、その分あらゆる嫌なことが「死にたい」の一言で表現できてしまう。
なぜ死にたい程イヤなのか、何が死にたい程イヤなのか、ということについては詳しく説明しなくて良くなってしまうのだ。そして、あらゆる事が抽象度の高い便利な言葉に吸収されてしまって、すべての解像度が低くなっていく。
これは「愛」などのポジティブな言葉にも同じ事が言えるだろう。

「死にたい」という言葉に囚われた私のアタマは、数日間使い物にならなかった。
その間、ゆっくり眠ったり何もせずに過ごしたりして、回復するのを静かに待った。
結局、悩みが解決したのかどうか、今となってはさっぱり思い出せないが、また一つ勉強になったなと思う。

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