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重巡洋艦「最上」の乗組員だったおじいちゃんが生き返った話1

私の祖父。
1923年(大正12年)9月22日生まれ。
目に留まった方、歴史に詳しい方、ぜひご指摘あればご教授頂ければ嬉しいです。

これは、戦争体験と、歴史の闇、不思議体験、ちょっとオカルト要素もある、不思議な『実話』です。


おじいちゃんは大正12年に鳥取県の旧岩美郡、米里村に生まれた。百姓一家、五人兄弟の三男坊。今でもおじいちゃんはトマトの苗を一つ買ってきたらあっという間に10も20も株を増やしてしまうし、挿し木、剪定、土いじりの知識は半端ない。それどころか、遠くで鳴いた鳥の鳴き声一つで鳥の名前を言い当て、遠い山肌の色を見て「あの辺りの木は○○、あっちは○○」と解説してしまう。山からとって来た種で花を咲かせるし、元気なころはフナもウナギもエビもその辺の川から獲ってきて捌いていた。大抵の家財道具は直してしまう。私が今も愛用してる鍋や机もおじいちゃんが改造したものだ。

おじいちゃんの名前は「柳右衛門」(リュウエモン)。タケダセイゾウさんという近所の頑固じいさんが命名した。彼は自分の孫にも「次郎右衛門」などと一風変わった名を付けるお爺さんとして有名だったらしく、お陰でよく「武士のような名前だな」と言われたらしいが、私の知っている限りはみんな好意的だし本人も誇らしそうである。

おじいちゃんはとにかく我が道を行くタイプである。譲らない、わがまま、本人も自分を短気でけんかっ早いと自覚している。

子供のころから、周りの大人にどうしろこうしろと口やかましく躾されたことはなく、ガキ大将として他陣地へ遠征に行き、石は投げるわ木の棒で叩くわの戦争ごっこをして過ごしていた。この辺は同郷の水木しげる先生(年齢は祖父の一つ上)の「花町ケンカ大将」の内容とほぼ変わらないのだから、当時のこどもたちは本当にあのような日々を過ごしていたのだろう。流行りは「少年倶楽部」。のらくろの載っていた雑誌である。そこには後に自らが乗組員となる重巡洋艦「最上」も載っていた。当時は珍しくない、兵隊さんに憧れる強気な少年であった。

ところで、おじいちゃんの母親はおじいちゃんのことを大層可愛がっていた。この母が、なにやら霊感に優れていたとかなんとか。この人物が祖父の戦死に関してすごい体験をする。私は会ったことないが、私と同じく卯年生まれだったとか。

さて、当時は尋常小学校の次は2年間小学校高等科へ通って、大体普通の百姓は15歳くらいで働きに出ていた。(金持ちの家は中学校に行くが)おじいちゃんは三徳尋常小学校の高等科を卒業したあと、農業の勉強をする「専修科」へ進学した。(タイトルの写真はどうやら出征前にこの時の同級生と記念に撮ったもの)

専修科では、畑で実習をしたり、ランプで温めて卵の孵化をさせたりと専門知識を学んだ。もしかしたら現在のおじいちゃんの知識は、ここで学んだことが多いのかもしれない。因みに専修科に通っていたのはみんな百姓の家の子だったらしい。

孵化
祖父の証言を元に描いたイメージ

しかし卒業まであと1か月というところで、国が勧める「お国の為に働け」という指示が。卒業直前の1月で中退を余儀なくされ、河原町にある「奥村」という鉄工所に勤め始めた。所謂、軍事工場である。私は祖父の「卒業できなかった」という言葉を何度か聞いている。卒業したということにしてほしいと掛け合ったが、素気無くされたとか。あと3か月を待たずしての中退は悔しかっただろう。(調べると「奥村」という歴史の長い工場が現在倉吉市に存在する。関係あるだろうか。)おじいちゃんは米里から河原の鉄工所まで、自転車で通った。

そして昭和16年、運命の時がやってくる。おじいちゃん17歳。米里村の村長ワタナベカンダイユウさんが若者のいる各家を廻りこう述べた。

「志願兵として、出願してもらいたい。」

一応自分で選べる、という「てい」ではあったが、出願しないわけにはいかなかった。当時は20歳になったら全員出征しなくてはない。なので、早く志願した方が階級が上になる。だから志願兵の方がある種、得なように言われていた。

若者たちは村役場に集められ(越路・郡家・長砂・久末・美和・大呂から)身体検査を行った。その内合格通知が来て、呉の海兵団に入ることが決まった。陸軍や海軍は自分では選べないのだ。村長より、「4月31日に津ノ井駅から出発だ。」と言われる。

常々思うのだけど、この世代は当時の日にちを正確に記憶されている方がとても多い。おじいちゃんも、今後書いていく戦争に関わる日にちをすごく細かく暗記している。

出征は昭和16年4月31日。真珠湾攻撃前である。当時は「戦地へ向かう」という意識より一般的に「勉強へ行く」という感覚の方が強かったという。津ノ井駅では「勝ってくるぞと勇ましく〜♪」の出征兵士を送る歌、日の丸に「祝・下田柳右衛門」の竹の旗。この日一緒に汽車で呉へ向かったのは、身体検査で甲種合格の郡家のヤマネマサジさん・美和のキシモトトシオさん・自分の3人だったと語る。80年以上前の、その日の景色を知っているのはもうおじいちゃんだけかもしれない。だからそのままここに記させて貰う。

さて、海兵団に入ってからではあるが、呉での訓練の最中、お母さんはある腰巻を送って来たという。それは、長い布に墨で長い線が描かれており、然る所でわざわざ描いてもらったのだという。この腰巻が、後におじいちゃんの命を助けることになろうとは。その黒い線をお母さんは「蛇の神さん」だと言った。この「蛇の神様」が姿形を変えて戦中戦後、度々登場する。その線は、確かに蛇に似ているかもしれない。

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↑現在も保存されている腰巻。

当時の願掛けで、十銭硬貨と五銭硬貨を縫い付ける、という風習があった。「苦(九)を越える」という意味で十銭、「死(四)を越える」という意味で五銭。この小銭が、本当におじいちゃんの命を守ることになろうとは…


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今でも当時の片方の硬貨が縫い付けられたまま保存されている。


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そしてもう片方の硬貨は身代わりとなり、おじいちゃんは九死に一生を得た。


この母の腰巻、一体どういう経緯で作られたのか私は気になって仕方ない。おじいちゃんに聞いても分からないと言う。

とりあえず、こうしておじいちゃんは鳥取を後にした。次に鳥取に戻るのは、歴史の影に追いやられた「鳥取大震災」の時である。

次回に続く。




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