序章3 食事に関する3つのお話

『聖者の食卓』

正月太りを解消しようと少し食事制限をしていた。観たらお腹がすいてしまうと知りつつも、実際に食べる代わりに食事の映画を観たくなって、amazon prime videoでなんとなく探して、どんな映画か全く知らずに再生ボタンを押した。
……誰も喋らないなあ。10分たっても20分たってもずっとシク教徒らの光景のみが映される。皆靴を脱いで手を洗ってピカピカの床の道を進む。あっナン作ってる。うわあ、絶対いい香りだろうなあ。皆同じ銀色のプレートを持って広い部屋で待機する。皆同じものがそのプレートに配られていく。美味しそうぅ。様々な人がカメラ目線で映される。おっナンのおかわりかあ。そうしている間に片付けが始まる。食べきれなかった子どもの分をそのお母さんがすする。ひたすらにプレートを洗う人、洗えているか確認する人、回収する人…すごい量だ。片付けが終わっていくとにぎやかな一時は終わって静けさが訪れる……
一時間。気付いたら終わっていた。台詞もないし物語が展開するわけでもなかったけれど、そこには食事を皆が受け取れる、幸せな空間があった。食事の在り方ってこういうところにあるよなあって、部屋の狭いデスクで一人での夕飯を思い浮かべながら思った。

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○○とは

食事とは、というディスカッションで浮かび上がったのは、それぞれの、食事に対する考え方の違い。
食事は豊かさを生んでくれる。
食事なんてもし生きるために必要じゃなかったらいらないよ。
そんなに意見が割れるものなんだ。私は断然前者だなあ、美味しいもの食べて幸せ感じたいもの。
家庭の事情でコンビニやお惣菜でご飯を済ませる子どもがまともなご飯を食べるようになると、味覚形成の時期はもう過ぎているものの、食事の温かさを知り性格も穏やかになる、ということがあるらしい。
同じ行為でも、その位置づけは違う。ああ、だから、家族団らんの時間をとることが大事です、なんて、家庭科の授業で習ったんだなって。ひとり暮らしになって一人で食事をすると、温かいごはんも少し冷たく感じるような気がするのは気のせいだろうか。
人生のうちで食事をとる時間の割合を考えたら、効率の低下につながる。それも確かに合理的な考え方だとは思うのだけど、より良い食事が生きる力になり、食事次第で体調や気分も変化し、自己管理の一環にもなるんだから、そんなに面白いことってないじゃない?ここ1ヶ月くらい毎日ほぼ同じものを食べている私が言うかって感じだけど。それに、美味しいっていう味覚を共有してそれがコミュニケーションにつながる、そこがいいところでもあるじゃない?食べてる間に食べることに集中してしまうことの多い、外食も全然しない私が言うのもなんだけど。

断じて後者を否定するつもりはない。あくまで私は前者であると、ただそれだけのお話。生涯非効率な人間でありたい。

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海外の食べ物

美味しいのか美味しくないのかよく分からない。インドネシアで食事をして思ったことだ。
どう?美味しい?
魚料理のお店に連れてきてくれて、そこで聞かれたことだ。
…とても美味しい!
そう答えたが、実際のところ、私の舌には、日本で食べたことのない味、不味いとは思わない、それくらいの情報しか浮かばなかった。
こんなことを、ザンビアで食事をしたときに思い出した。
いっぱい食べてね。
そういって渡してくれるのは甘くないトウモロコシの粉を練ったシマ。
最初は美味しさを全然感じなかったけれど、しばらく毎日シマを食べていると少し、美味しさが分かったような気もした。
味わったことのない美味しさは美味しいのかどうか分からない、判断できない、というのはある意味正しいのかも。その根拠の一つになってくれるものを得た。
海外の食べ物がしんどかった、という話をしたとき、とある人がその反応は正しい、と言ってある記事を紹介してくれた。人類にとって必要な、限りある食物は、食資源を分散させることで競合的に取り合うことが防がれている、といった内容だった。
なるほどなあ。
分からない美味しさが世界に潜んでいるのなら、もっと知りたい。海外料理のお店に足を運んでみようか、そう思ってからまだ行っていない。本当、行動力がない。行きたいっていう衝動が湧いてないってことは現時点では優先度が高くないってことだろうね。もっとしたいことたくさんあるもの!

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