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【随想】なぜ紙の本が良いのか

 電子書籍がすっかり一般化しても、私は変わらず紙の本が好きだ。特に小説を読むときには(電子でしか読めない作品でない限り)必ず紙の本と決めている。その理由を4つの観点から紹介する。


1.厚みによる効果

 当然ながら紙の本はモノとして存在するため、ひと目で厚みが判る。これによる効果が大きすぎる。

 厚みとはすなわち量感だ。電子でもデータとしてページ数や文字数は判るが、そこには視覚的な把握が伴わない。紙の本において量感は重要な第一印象である。それが損なわれては本との出会いにおいて鮮明さを欠くことに繋がるし、やっぱり「空いた時間にひとつ短い本を読もう」とか「久しぶりに分厚い本に挑戦してみよう」とか、厚みによる判断やモチベーションだって本を選ぶときにはあるのだ。

 その本の量感と、手に持ったときの厚みや重みが連動することも重要である。本にはそれぞれに固有の手ごたえが存在する。しかし電子書籍では常に同一の端末となり、手応えが変わらない。それではどうしたってシックリこない。

 また、紙の本は読んでいる最中、現在が全体におけるどのくらいの位置であるかが常に目に入っている点でも優れている。「まだ先が長いから今日はここまで」とか「クライマックスだからこのまま読みきってしまおう」とか、そういう読書のペース配分が自然とできるわけだ。電子書籍でも確認は可能だが、紙の本では明らかに見ているとおりなため、いちいち意識する必要がない。

 そして意識せずとも記憶には残るものだ。あとから特定の箇所を読み返すときにも指が覚えていて、すぐに辿り着けることが多い。電子書籍なら特定のページに印をつけていつでも遷移できるだろうが、そうではなくて〈読んでいるときには印までつけようと思わないが後からふと気になる箇所〉というのが読書をしていると無数にある。あるいは複数のページを交互に参照しながら読むようなことも、端末の操作でなく、実際にページに指を挟んでやった方が早いし判りやすい。

 それに私は自身が小説を書く人間であるから、読んでいるときにも構成に関心が向く。つまり〈どのあたりで、どんな展開を迎えるのか〉ということを把握しながら読みたい。

 特にミステリにおいてはこれが重要だ。たとえば解決編が始まっても、分量がまだ半分ほど残っている時点であれば、それは真相の途中までしか明かされないか、のちにひっくり返されるためのダミー解決編だと判る。そういう作者との駆け引きも含めて読書を楽しむにあたり、何ページ分の何ページ目とかシークバーの表示を確認するという行為は水を差すのだ。

2.変化による個性と愛着

 機能的な利点ではないものの、紙の本に固有の現象として、状態が変化していくことが挙げられる。

 まずは微細ながら、手に持って読んでいるうちに、本が自分の手に馴染んでくる感覚を読書家なら味わったことがあるだろう。これは手の位置や力のかけ方によって、実際に紙のかたちが変わっている。

 環境による変化もある。本は陽に焼けるし、湿気で駄目になるし、汚れだってつく。これは保管に気を配らなければならないという欠点とも云えるが、一方で個性の獲得とも云える。

 たとえば旅行のお供に本を持っていく。移動中の電車やお店での待ち時間、宿での就寝前に開いて読む。自宅で読むだけの本とは異なり、他の雑多なものと一緒に鞄から出し入れされた本は、段々とくたびれていく。旅行から帰ったころには、旅行前とは状態が変わっている。しかしそれは、その旅の記憶が刻まれた思い出の品だ。そのときには、汚れすらその本の大切な一部だろう。

 新品の時点では他にも存在する本だったものが、いつしかこの世に一冊だけの本になる。そして、そこに至るまでのドラマを共有する以上、持ち主からすれば愛着だって生まれるのだ。

3.書店における体験

 書店が好きだ。紙の本が並ぶ空間で、ただそれらを眺めながら歩くだけで満たされる気持ちがあるし、そうやって本を選びたい。ネットで書影やタイトルの羅列を見ていたって味気ない。

 本は、ただの消費の対象ではなくて出会いだ。

 かつての出会い系サイトがマッチングアプリなんて名称に変わり一般化した現代においてはその感覚も変わってきた観があるけれど、やっぱり本との出会いはネットショッピングなんかとは違って、かたちある書店においてかたちあるそれでありたい。

 もちろん、買う本が決まっているならネットで購入するのもありかも知れない。そのなかにはネットで評判を調べて、そのままネットで購入という流れもあるだろう。しかし年間何百冊もの本を読む人間からすれば、そのような本の選び方は早々に行き詰まる。

 ネットには無尽蔵の情報があるけれど、結局はそこからひとりの人間が取捨選択をするわけで、その性向は限定的だ。ただ他人の評判を確かめるだけの予定調和な読書になっていくし、死角から殴られるような衝撃を味わうことは難しい。調べれば調べるほど、人間はリスクを回避しようとするからだ。だがリスクが低ければリターンも少ない。そして狭い世界のなかで判った気になって、読書を続けなくなってしまうというのがよくあるケースだ。

〈目当ての本が決まっているわけではないが書店に立ち寄る〉という習慣を大切にしたい。それでこそ思わぬ出会いがある。棚の隅から隅まで目を通していくなかで、ふと目に留まる本がある。表紙、装本、出版社、タイトル、作家名、あらすじ、帯の惹句、試しに開いてみたページに書かれてある一文……どこが決め手になるかは、その時々によって違う。理屈でない、感覚的な判断に身を委ねてみると、そうやって選んだ本が自分の人生にとって掛け替えのない一冊になったりする。紙の本には、こういうことがよく起こる。

4.制限があることの豊かさ

 最後はフェティシズムだが、ゆえに偏愛を生む理由でもある。

 当然ながら紙の本はモノなのだから、使用している紙も、その断裁の仕方も、文字の配置やサイズ、フォント、インクの種類まで、レイアウトがつくられたとおりに決まっている。電子書籍なら端末のサイズに合わせて一行あたりの文字数が変わるだろうし、文字のサイズも自分が読みやすいように変更できるだろう。つまり紙の本にはモノであるがための制限があり、不便さがある。

 しかしそこを楽しめるというのが、この場合の豊かさなのだ。

 趣味の領域は、必ずしも利便性や効率が価値基準ではない。美術品を例に挙げると判りやすいだろう。それらは美しさや希少性、そのモノが生まれた背景といった、機能的でない部分に価値がつく。同じように紙の本だって高値で取引される中古本が存在するし、それらの蒐集癖も存在する。

 そしてそういう楽しみは高級品に限った話ではない。市場において高い価値がついていなくたって、どんな本でもレイアウトを楽しめる。その本ごとに個性があるし、レイアウトが一定決まっている文庫本や新書におけるレーベルごとの違いも好きだ(たとえば新潮文庫には栞として使える紐がついていて、本の上部は断裁されておらずザラザラしている特徴がある等)。

 特に使っている紙や1ページあたりの文字数は、読み味に直結する。つるつるしている紙は製本がきれいに仕上がる一方で、ザラザラとした紙は良い具合に指に引っ掛かってくれるからめくりやすい。紙自体の厚さは、厚い場合には見た目ほど実際のページ数が多くないことから、ぐいぐい読み進めているという感覚を覚えやすい。しかし腰を据えてていねいに読みたい作品には薄い紙の方が親和性があるし、中身がギッシリと詰まっている満足感もある。

 どの場合にも共通して優れたレイアウトというものはなく、その作品ごとに求められるレイアウトは違っていて、成功しているときも失敗しているときもある。それらをすべて含めてその本なのであって、それが堪らなく愛おしいのだ。

以上

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