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映画『君たちはどう生きるか』は、こう楽しめばいい

 宮崎駿監督最新作『君たちはどう生きるか』、私は劇場で2回鑑賞した。

 はじめに断っておくと、私はこの作品に関して完全な肯定派だ。宮崎駿監督の長編アニメーション作品はこれまですべて観ていて、その流れも踏まえると今この作品がつくられたことには大変な感慨を抱くし、作品自体の出来栄えも素晴らしい。以下に詳しく書いていこうと思う。

*「2.ストーリー全体の構成」以降はネタバレへの配慮をせず書きますのでご注意ください。
*宮崎駿監督はこれまで「崎」の字だったのが本作では「﨑」表記となっているのですが、この記事では従来どおりの「崎」表記で統一します。


1.本作の位置づけ

 本作はこれまでの宮崎駿監督作品以上に賛否両論となっているようだ。つまり「よく判らなかった」「あまり楽しめなかった」という感想も目立つのだが、その大きな理由は本作がこれまでのどの宮崎駿監督作品とも異なる、非エンタメかつカオスな作品であるためだろう。

 宮崎駿監督の長編アニメーション作品は以下の順序となっているのだが、これには大きな流れがある。

ルパン三世 カリオストロの城(1979)
風の谷のナウシカ(1984)
天空の城ラピュタ(1986)
となりのトトロ(1988)
魔女の宅急便(1989)
紅の豚(1992)
もののけ姫(1997)
千と千尋の神隠し(2001)
ハウルの動く城(2004)
崖の上のポニョ(2008)
風立ちぬ(2013)
君たちはどう生きるか(2023)

『ルパン三世 カリオストロの城』から『もののけ姫』までは〈物語を伝える作品〉だった。〈物語を伝える作品〉とは、いわゆるよくできた脚本を指向するものだ。問題の提示、葛藤、解決によって上手く構成されてオチがつく。起承転結に沿って盛り上がる。整合性がとれている。小説、漫画、映画等、ストーリーテリングの要素を含む作品は大抵がそうである。もちろん難易度の幅はあるけれど、これらは作品側が失敗していない限り〈理解が可能な作品〉とも云える。宮崎駿監督も初期はこの正攻法で作品づくりにアプローチしていた(もちろん宮崎駿監督作品は脚本も監督自身によるものだ)。

 それがついに最高水準に到達した作品こそ、『もののけ姫』だったと思う。『もののけ姫』は『風の谷のナウシカ』で見られた人間の文明と自然との対比であったり、『天空の城ラピュタ』で見られたボーイミーツガールの見せ方であったりと、これまでの作品で描いてきたことの総決算(※)であり、物語自体の完成度もエンタメ性とテーマ性のバランスも理想的だった。
※宮崎駿監督作品にとって重要な要素のひとつである〈飛行船〉は登場しないものの、これは舞台設定上やむを得ない。

 よって宮崎駿監督は次の『千と千尋の神隠し』から、それまでと違う作品づくりを始めた。物語ではなく〈イメージの集合による作品〉だ。これは容易なアプローチではない。整合性とか、伏線を回収するとか、それぞれの要素が有機的に作用し合うとか、そういういわゆるよくできた脚本にすることは二の次三の次で、それぞれのシーンやキャラクター自体が強烈な意味や象徴を持ち、それらを理屈でなく想像力で繋ぎ合わせたような混沌とした作品。つまりカオスな作品である。すべてを理解することは不可能だ。

 しかしそれでいて抜群に面白いのは、宮崎駿監督作品が持つアニメーションの説得力とエンターテインメント性への意識が、観客をぐいぐいと引き込み続けるためだろう。

 宮崎駿監督は一貫してエンタメをつくってきた。ここで云うエンタメとは、子どもが楽しめるという意味だ。だからカオスであっても、エンタメとしてはわかりやすい。アニメーションは子どもが楽しめるべきであるという考えは、宮崎駿監督作品の大前提としてその後も『崖の上のポニョ』までずっと続く。その前提から解放されたのは、やっと前作『風立ちぬ』でのことだった。

『風立ちぬ』は非エンタメの作品だ。エンタメ性を意識せずに宮崎駿監督が描きたいことを赤裸々なまでに描ききっており、作品自体も、ものづくりをする人間のエゴイズムをテーマのひとつに含んでいる。従来のエンタメ作品との違いは、観客が自ら積極的に理解しようとしなければその作品の真の面白みを見出すことが難しい点だ。

 一方で『風立ちぬ』は、『千と千尋の神隠し』から『崖の上のポニョ』までのカオスな作品づくりの流れは汲んでおらず、地に足の着いた人間ドラマだった。しかし非エンタメ作品であるがゆえ、理解は可能だが難しい。分かりやすい説明は省かれているし、道義的に正しくないことも含まれているし、キャラクターの心情を描写の端々から汲み取らなければ共感もできるはずがない。だが見る人によっては深くまで入り込んで特別な作品となるだろうし、私も『風立ちぬ』こそ宮崎駿監督作品の中で最も好きである。

 そして今回の『君たちはどう生きるか』もまた、『風立ちぬ』と同じく宮崎駿の作家性が爆発した非エンタメの作品だった。それでいて『風立ちぬ』と異なるのは、『千と千尋の神隠し』から『崖の上のポニョ』までに見られたカオスが復活していることだ。つまりは初となる非エンタメかつカオスという組み合わせ。ただでさえ理解が難しいうえに、そもそも理解が不可能な要素が大量に入り込んでいるのだから、「よく判らなかった」「あまり楽しめなかった」という感想が出るのも当然だろうと思う。

 だが、それでも『君たちはどう生きるか』は傑作だ。従来のエンタメや非カオスの作品における見方をしてこの作品を楽しめていないなら、それはあまりにもったいない。

2.ストーリー全体の構成

 非エンタメかつカオスという特徴を押さえることができれば、『君たちはどう生きるか』はきれいにまとまっている印象の作品に変貌を遂げる。私も初見時は特に終盤、大いに翻弄されながら観ていたのだけれど、結末まで見届けて鑑賞後に劇場を出たときには爽快な気分に変わっていた。むしろ驚くほど分かりやすく、きれいにまとまっている作品だと思った。

 なぜなら、本作は本筋さえ見失わなければ混乱することのないつくりとなっているためだ。

 本筋をかんたんに整理する。まず母を亡くした主人公の少年・眞人が、新しい母(亡くなった母の実妹)である夏子のもとに行くところから物語は始まる。眞人はまだ実の母の死を引きずっていて、新しい母、新しい環境に折り合いをつけることができずに、現実逃避のような生活を送っていたところ、異世界へといざなわれる。そこで色んな交流、冒険を経た彼は、自分の気持ちに整理をつけて、また現実に向き合って生きていくことになる。

 もちろん中盤で舞台が異世界に移って以降は抽象度の高い諸要素が渦巻くのだが、それらは前述のとおりカオスなので私達の理解を越えている。異世界の仕組みとか意味に気を取られてしまうと、たちまち答えのない迷路に入ってしまう。そこで色々とメタ的に(たとえばこの異世界はスタジオジブリを象徴するとか、このキャラクターは誰誰だとか)解釈するのは、それ自体も面白いので楽しみ方として当然ありなのだけれど、それで本作の核心に迫るということはないだろう。そこを深く考察することは必須ではない。いくらでも解釈をつけられるし、それを肯定も否定もできる。そういう楽しみ方はあくまでも二次創作的なものである。

 本筋の方向性は、序盤においてていねいに示されている。異世界に行くまでのこの作品は、宮崎駿監督作品にしては珍しいほど非常に抑制されたテンポと演出がされていて、話の筋を見失うおそれはない。そして異世界に行くと途端に怒涛の展開となるが、序盤で示された方向をずっと向いていれば、いわば方位磁針を手放さなければ、迷わずに異世界を抜けられるはずだ。

3.異世界の解釈

 では異世界における流れをどう辿っていくべきなのか。カオスな世界では連続性や整合性は必ずしも保たれていない。個々のシーンにおける演出が意図するものを読み取っていくことが重要となる。

 眞人が異世界に通じる塔へと行くのは、姿を消した夏子を探してのことだ。アオサギによって実母であるヒサコの生存を仄めかされ、その真偽を確かめる目的もあったが、塔に入ってすぐアオサギの用意したヒサコの偽物が溶解するのを彼は目の当たりにする。よって、もはやヒサコの生存は期待できず、目的は夏子探しに絞られる。ただしこういう成り行きなので、相変わらずヒサコの死を引きずっているし、その動機は夏子を母として心配しているのでなく義務感や正義感に近い。だから眞人は夏子を〈父さんが好きな人〉と表現し、母とは呼ばない。

 異世界に入った眞人はまず、若いキリコに出会う。後に分かるが、これは眞人と一緒に入ったキリコが異世界で若返りを起こしたのではなく、本当に若いキリコだ。この異世界は現実世界の様々な時代に通じているため、現実世界では異なる時代を生きる人同士が此処で居合わせることができる(これはカオスでなく、現実世界と異世界を繋ぐ設定として理解できる)。

 そしてキリコが暮らす場所に連れて行かれると、そこで現実世界におけるばあや達によく似た木彫りの人形がある。キリコ曰く、それらは眞人を守っているものであり、決して触れてはいけないのだが、眞人はこれにあえて触れる。ここに意図がある。眞人は常に大人から守られている。怪我をすればみなが心配して手当てし、父親も行動を起こしてくれる。そして異世界に来てもまだ、こうして守られていると云う。そこで眞人はこの状態からの脱却を図ったのだ。自分の意思で、自分の責任で夏子を探すのだという覚悟を決めたとも云えるだろう。

 その結果、次に起きたことが異世界におけるアオサギとの再会だ。アオサギは眞人を守る存在ではない。はじめは敵対し、最後には相棒として、いずれも対等の関係にあるキャラクターである。眞人が木彫りの人間に触れたことで夏子探しが進展を見せるわけだ。

 アオサギと共に行動し、眞人は次にヒミと出会う。ヒミは若いころの実母ヒサコだ。ヒサコもまた、若いころにこの異世界に来ていて、キリコ同様、現実世界の時代を越えて眞人と同じ空間に居合わせたことになる。よってヒミはヒサコの生存を意味しないが、眞人は奇妙なかたちで母との再会を叶えることになる。このヒミも、眞人を産む前の少女なので、手助けはするものの眞人を守る存在ではなく、冒険を共にする仲間としての役割が重ねられている。

 ヒミに導かれ、眞人はやっと夏子のもとにやって来る。しかし夏子は眞人を拒絶し、「大嫌い」とまで云う。これは眞人にとって予想外の反応だったが、同時に彼は理解する。現実世界の夏子は立派な大人、立派な母として立ち回っていたけれど本当は自分と同じひとりの人間であり、不安や葛藤を抱えていたのだ。だから彼女もこの異世界に導かれ、自分の意思で閉じこもるようになったのだ。その理解と共感から、やっと眞人は夏子を〈母さん〉と呼ぶ。その声と気持ちは夏子にも届き、一気に相互理解まで繋がるが、まだ話は終わらず最後の展開へと移っていく。

 最後の展開とは、大叔父から眞人への異世界の継承だ。しかし眞人はそれを辞退する。辞退の理由を、彼は頭部の傷跡に象徴させる。

 この傷跡は本作の序盤、現実世界において彼が自ら石で殴ってつけた傷だ。彼は学校の同級生らに馴染めず衝突するが、その喧嘩ではせいぜい服が汚れて何か所が擦りむいた程度だった。だから彼は自作自演の重症を負った。父親やばあや達に対しては「転んだだけ」と説明するが、みなは〈心配をかけまいと嘘をついている。本当は同級生らにやられたのだ〉と解釈するし、父親は彼にもう学校に行かなくてよいと云う。このレベルの怪我をすればそうなるだろうという打算のもと、彼は行動したのだ。理由は無論、新しい環境に馴染めないというより、馴染みたくないからだった。

 眞人はこの卑怯な行動を自分の悪意として大叔父に告白する。夏子の不安や葛藤を知ったとき、彼はこれまで自分のことしか考えられていなかったことにも気付いただろう。〈自分は夏子さんを探しに来てやったんだ〉という独り善がりな姿勢があったからこそ、夏子に拒絶された彼は驚いたのだ。それを自覚して認めた彼は、現実世界に戻り、そこで向き合い、生きていくことを決めたのである。それは気持ちの面でも、異世界の崩壊という意味でも、実母ヒサコとの別れを受け入れることでもあった。

 ヒミは若いキリコと共に、眞人とは別のドアをくぐる。それは眞人にとっての過去、ヒサコが現実世界で行方不明となった1年後に通じるドアだ。二人は異世界での記憶を失い現実世界で歳を重ね、ヒサコは眞人を生んだ後に火事で亡くなるし、キリコはばあやとなって眞人と出会うことになるのだろう。それらを理解したうえで、眞人は夏子とばあやのヒサコ(木彫りの人形の姿となって眞人のポケットに入っている)と一緒に、自分達の現実へと帰還する。自分はこう生きるんだという決意を持って。

4.おわりに

 異世界における特に終盤は目まぐるしく展開し、序盤とは打って変わって観客は異様な集中力を要求される。そして最後に異世界の崩壊とともに現実世界に帰還すると、もっとあの異世界に浸っていたかったと、胸が詰まるような切なさに襲われる。

 どこか異世界じみた場所に行って戻ってくるという構成の作品は多く存在するが、普通、上記のような感覚はその異世界への理解や親しみによって生じるものだ。だが本作においては、まだ異世界のことを理解しきれていない、もっと知りたいという感情からそうなる点が非常にユニークであって、面白いと感じた。大きな流れはこの記事で書いたとおりだが、2回の鑑賞ではまだまだ拾い切れていない箇所が多いだろう。これから私は何度、あの異世界を訪れて、同じ数だけ崩壊を見届けることになるだろうか。

 本作のタイトルは『君たちはどう生きるか』だが、同名の小説よりも、話の筋は『失われたものたちの本』が基になっている。むしろ『君たちはどう生きるか』は劇中でヒサコが眞人に残してくれた本として実際に登場するとはいえ、あまり密接な関係はない。それでも本作のタイトルはこれが良かったのだと思う。

 ひとりの表現者は、その生涯でどれだけの仕事に取り組むことができるのか。宮崎駿監督は選択と集中の積み重ねによってこのフィルモグラフィーとなった。そして『風立ちぬ』の後にこの作品をつくったということに途方もない畏敬の念を抱くとともに、背筋が伸びる思いである。

以上

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