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NFTを作って半年。私はNFTを、そしてこの界隈をかなり誤解していたのだ。

 昨年の冬頃、仮想通貨売買やBCGで遊んでいた私は、トークンの暴落やラグにまみれたクリプト界隈に嫌気がさし始めていた。
 もともと絵を描いたり音楽を奏でることが好きだった自分は、この時のモヤモヤを表現活動に向けようと考えた。そこでNFTと出会った。当時のNFT界隈はその他のクリプトにはない平和さ・明るさを感じた。
 google先生を頼りに勉強し、なんとか作った独自コントラクトのジェネラティブNFT。ミッドナイトチキンコンボというNFTを今年1月下旬に作り出して、もう半年以上が過ぎた。最後は徹夜で作業して朝を迎え、そのままgiveawayを行ったときの興奮を今も覚えている。この時から売る気持ちは薄く、自分の作ったトークンが世界中の様々な人のアドレスに収まっていく興奮と喜びを感じていた。
 しかし、新しい技術に対する私の感じていた興奮は、どうやら周りのものとは違っていたようだった。

ツイッターを毎日のように流れる売買報告

 当時もピークは過ぎていたかもしれないが、まだNFT熱が残っていたように思う。「デジタルデータの所有」という新しい技術、まだ一部の人間にしか扱えていないこの技術に対する熱狂。ツイッターでは毎日のように売買報告が流れ、タイムラインは「こんなに買ってもらえるなんて夢みたい!」というメッセージとともに添付されているopenseaからのメール画像でいっぱいになっていた。

 しかし、彼らはたいしてブロックチェーンに興味はないのである。NFTの所有権に対する考えがどうなっているのか、そこに永続性はあるのか、ブロックチェーンには今後どのような活用があるのか、その社会的な意義はあるのか。そういったことを深掘りしていくほどの関心はないのである。

技術に飛びつくミーハーさと技術に対する無関心さ

 一方で彼らは、「この最新技術に触れている我々は国民の1パーセント!すごい!絶対NFTの時代がくる!」と声高に叫ぶ。その技術がどんなものなのか考えようともしないのに。
 「永遠の資産になる!」と騒いでいる一方で、独自コントラクトやIPFSといった技術にはなんの関心も持たない。そして盛大にラグられて初めて意識するか、もしくはそこでも意識にのぼらない。
 私は誤解していたのだ。彼らのほとんどは、技術に対して無関心で、ただ単にお金が欲しかっただけなのである。簡単に、シンプルに。

 NFTというデジタルデータの永遠性に心を躍らせているわりに、イベントはメタバースではなくフィジカルばかり。渋谷に出向かないと見られない絵、渋谷に行かないと手に入らないNFT。Web3やメタバースを声高に叫ぶ界隈のやることではないのである。
 あるインフルエンサーが、「このNFTを所持していれば、(現実世界の)特定のお店での食べ物・飲み物のサービスを受けることができる」というつぶやきを行ったところ、画期的だと盛り上がる。
 しかし、私が考えるに、それもブロックチェーンである必要はない。サービス券を持っていればよく、デジタルデータである必要性がない。
 そしてたかだか1杯のビールのために、一般民はわざわざ仮想通貨に触れるリスクを冒さないし、クリプト民だってメタマスクをスマホに入れて持ち運ぶリスクを冒さないのである。
 つまり、彼らはどうでもいいのである。彼らはそれがなんであれ、自分が新しいと感じたらそれで十分なのである。

結局のところ、NFTに大した意義はない。

 そしてNFT界隈のそういった部分に悩み続けた末、私もまた、あるシンプルなことに気づいた。私はもっと大きな部分で誤解していた。そう、「NFTに大した意義はない」のである。BTCをはじめとしたブロックチェーンによる仮想通貨ほどの意義は、NFTにはないのである。

 所有感覚のようなものは、確かにある。あるウォレットアドレスに紐づいたトークンと、そのトークンが持つメタデータと画像の保存先情報。私自身、確かにこれは所有っぽさがあると思うし、これをアドレス間でtransferさせていく楽しさを感じたこともある。実体はないのだけど、贈り物感がある。喜んでくれる嬉しさもあった。
 もちろん仮想通貨を使った売買の利便性も感じた。しかし、そこに社会を良くするような意義は見いだせなかった。もはやクリプトはビットコインさえ生きていればそれでいい気さえした(信者)。

NFTは投機、投資のマネーゲームツールでしかない。

 結局のところ、多くのNFTユーザーがそうであるように、このNFTという技術はマネーゲームに使われている。しかし、それでいいのである。NFTとはもともとそこまでの技術でしかなかったのだ。
 「これはあくまでマネーゲームの技術なのだ」と思えた瞬間、私は急に気が楽になった。そういう技術としてなら十分に面白い。
 世界中の人々と、法定通貨を扱うような銀行などを介さずに、仮想通貨を使って24時間365日、自由に取引して遊ぶことができる。ゲームなのだから勝つ人がいれば負ける人もいる。でもそれは当然自己責任。誰かのせいではなく、勝てなかった自分が悪い。そういう世界だと思えば、それはそれで十分画期的なのだから。

NFTが死んでも、ブロックチェーン技術は生き続ける。

 NFTの熱狂も少しずつ冷めてきているように思う。仮にNFT文化が消えてなくなったとしても、BTCを含む仮想通貨のもとで、ブロックチェーン技術はまだまだ生き続けるだろう。そして、(私を含め)NFT界隈にいるようななんちゃってブロックチェーン信奉者ではない、真のブロックチェーン技術者の手によって、社会に役立つ技術として浸透していくに違いない。これでいいのである。

 こういった流れによって、私からも熱は過ぎ去ってしまった。だから、辞めるとまではいかないが、距離をあけようと思う。NFTから私のフォロワーになった方々へはその点非常に申し訳ない。

 とはいえ、NFTのおかげで自分の絵を見てもらえて、様々な友人ができたことは感謝しないといけない。
 NFTを「辞める」というものではないし、また絵を描いたらコレクションに足していくこともあると思う。面白い技術だし、今後も適宜勉強していきたいと思っている。ただ率先してNFTについて活動するということは減らそうと思っている。これが今回言いたかったこと。

 今後もミッドナイトチキン(真夜中チキン)というコンテンツを育てていくことには変わりありません。もしよければご一緒に、チキンたちの成長を見守り、楽しんでいただけるとありがたいです。
 ここまで読んでいただいた方はありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。


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