文芸批評断章20-21

20
島村抱月は『自然主義の価値』(6)において、次のように言う。すなわち、文芸の目的には快楽と実際的意義とがあり、両者を総括して美となる。一方に偏るのでは文芸ではない。道徳を説くだけでは単なる修身書であり、快楽のみを目的とすれば遊戯や飲食と変わらない。「両者は是非とも溶解して一になつてゐなくてはならぬ」のであり、「此の境を吾人はまず大まかに美と名づける」と。(現代日本文學大系 第96巻 文藝評論集)

ロマンチシズムは美的対象から得られる快楽により、リアリズムは客観的事実の正確な描写を目的とする。ロマンチシズムは客観界にあろうとなかろうとかまわずに主観的観念上に何らかの物のイメージを作り上げ、そこから美的対象を得ようとする。リアリズムは客観的にある物をそのまま描写するのであって、それに対して主観的にどう感じられたのかは問われない。ロマンチストはいわば目覚めることなき夢遊病者であり、いずれ井戸に落ちる。リアリストは夢を見ずに現実に従うだけであり、無味乾燥にやがて耐えられなくなる。夢は夢に惑い、現は現に倦む。夢は現に目覚めねばならず、現は夢を見なければならないのである。人間が人間として、また人間らしく、生きるためには、ロマンチシズムとリアリズムの弁証法的統一が不可欠なのである。

21
ロマン主義者は想像力を奔放に活用しようとする。しかし想像力は無限ではない。有限なる人間の想像力が無限であるはずもない。いかに恐るべき怪物を自由奔放に創造しようとしても、怪物にはおそらくは二本の足があり、二本の腕があり、二つの目があり、一つの鼻があり、一つの口があるだろう。そうでないとしても、どのみち二本が一本になるか、それとも一本が二本あるいはそれ以上になっているか、それくらいの違いであろうし、どこかした似たり寄ったりであろう。メアリー・シェリーは夫に負けぬ想像力でもって『フランケンシュタイン』で怪物を生み出したが、その姿は(体が大きいということ以外には)きわめて人間的なるものであった。人間の想像力には限界があるのである。

試みにバイロンの『海賊』(太田三郎訳、岩波文庫)の頁を開いてみよう。バイロンはその奔放なる想像力を駆使しては速筆を誇ったが(それを友人でもあったシェリーは羨んでいたが)、その想像力をもってしても、時にその描写は紋切り型であった。『海賊』には二人のヒロインが登場する。一人は、主役たる海賊の貞淑なる妻であり、もう一人は海賊に捕らわれながらも優しく扱われ、しまいには太守に捕捉された海賊に情を移してしまった女である。

海賊は詩人の複雑なる性格を反映しており、その言動がしばしば読めない。次にどのような感情を抱くのか、どのような言動を見せるのか、予測がつかない。予測がつかないにしても非現実的ではなくてリアリティを帯びている。実際の詩人の内面が正確に描き出されているからであろう。ところが、二人の女ときたら、実に類型的である。妻の女は夫を愛する妻の役割のみを帯びる。夫のためにおいしい食事を整える。夫が出航したら朝から晩まで夫のいる海を見つめる。心の中は夫への愛情に溢れかえって、数多い手下たちのことは考えられないでいる。夫が帰ってくれば喜び、夫が荒れた海へと出かければ悲しんだり心配したりし、夫が死んだという(誤った)報告を聞けば悲観して自殺する。すべて読み手が予測可能な反応であろう。不慣れな読者ならば予測できなかったとしても、結末を聞けばすべて想定内に収まる展開であろう。もう一方の女はと言えば、海賊の敵たる太守の愛人でありながらもいまは海賊のことしか考えられなくなっており、救い出すために太守の殺害にすら手を染める。こちらの女も妻の女と同様に型にはまった心情に揺れ動き、想定の範囲内の言動を見せているに過ぎない。

両者について考えてみよう。海賊の妻は手下から「姉御」と呼ばれ慕われながらも、指導者を亡くした手下の今後の生活を憂えることもなく、死んだ(と聞かされた)海賊の後を追って自らに手を掛ける。海賊を救った女はハレムの女の「頭」でありながらも、彼女が守るべき女たちよりも海賊のことばかり考えるようになる。両者ともに恋する女に過ぎない。主役たる海賊とはといえば、妻を愛しながらも己が運命について考え、事業成功のために最善を計画し、部下に的確な命令を下す。海賊は男でありながらも盗賊の首領でもあり己れの運命に悩める人間でもあった。その役割は女を愛するだけではなかったのである。ところが、二人の女は作中ではただ一人の男を愛するのみの任務が付与されているだけであって、女はついに女でしかなく、人間ではなかったのである。

私はここにバイロンの想像力の限界を見る。バイロンはシェリーともどもロマン主義者であって、ギリシア独立のために戦った自由の徒でもあったのであるが、その女性を見る目は専制的にして好色なる太守さながらに一面的であり、自己の願望を投影したのみであった。詩人その人は現実の歴史では自由を希求しながらも、作中の女には自由を付与しなかった。バイロンの想像力の限界は彼の男性中心主義的思想の限界でもあった(そういえば、田山花袋も『蒲団』には、「四五年前までの女は感情を顕わすのに極めて単純で、怒った容(かたち)とか笑った容とか、三種、四種位しかその感情を表わすことが出来なかったが、今では情を巧に顔に表わす女が多くなった。」という一節がある。花袋の頃から、女は女以外の表情も見せ始めた。女は人間になり始めた。バイロンの時代、女はいまだ女に過ぎず、人間ではなかった。バイロンの限界は時代の限界でもあったのかもしれない。稀有の才能を有する詩人の想像力でもってしても、時代を突破できなかったのである)。

以上のことを簡潔にまとめてみよう。『海賊』では一人の男と二人の女が登場する。男は女に恋もすれば自己の運命について黙想もし、才能ある指揮官であって部下に命令も下す。男は複数の役割を演じており、男であると同時に人間でもある。しかしながら、ここでの二人の女は男を愛する役割しか与えられていない。女は女であるに過ぎない。海賊の妻はおいしい料理は作るしダンスも歌もするが、どれも男を愛するがためである。囚われの身となった女は海賊を捉えた太守を倒すが、それも男を愛するがためである。方や男を思って貞淑であり方や男を守ろうとして勇敢であるが、どちらも男の「女はかくあれかし!」という願望の枠内に踏みとどまっている。その点において、いずれの女性像も類型的で退屈である。首領の男の多面的で複雑な性格に興味が尽きないことと較べれば、それは一目瞭然である。

ここで女流作家であるヴァージニア・ウルフの言葉に耳を傾けてみよう。この作家は「仮に男が女の愛人としてしか文芸作品で描かれていなかったとしたらどうか、考えてみよ」と言う(『自分だけの部屋』5)。ウルフは、バイロンを論じたのでも難じたのでもないのであるが、彼女の言葉は巧まずしてバイロン流の男性中心主義批判となっている。バイロンの描く女性像は詩人の願望が投影されているのみであって一面的であり、女を多面的人間として捉えておらず、その点で文学的想像力を欠いたものとなっている。男の文士が女を女としてのみ描く限り、そこには男の願望が何らかの形で反映され、ひどい場合には男の色眼鏡を通してのみの女が見られるので、そこでの女性像は紋切り型となり、文学に目の肥えた読者は飽きが来ざるを得ない。しかし男の文士が女を女であるのみならず人間としても描くことができるのであれば、その人物はよりいっそう生き生きとするであろうし、類型的たる性格を克服するであろうし、読み手にとっても女性が意外な側面を見せて来ることであろうから、熱心に作品を読み進めることとなろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?