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山田ズーニーさんのWSで気づいた「根本思想」とじぶんの言葉の関係

「山ごもりがしたい」

3月に入ってから毎日、毎日、頭の中に浮かんでいたこの言葉。子育てと仕事の両立、という”いかにも”な理由を楯に取りたいわけじゃないけど、目の前の現実である「ルーティーン地獄」の中でもがいていた。

朝7時から夜22時まで、ほぼ寸分の狂いもなく続く「日常」。1〜2時間ごとに構成された子どもの世話や家事、仕事という「用事」で、毎日が過ぎていき、考え事をしても途切れ途切れで、いつも同じところをぐるぐるぐるぐる。

この、ドラム式洗濯機のように回る、回ること自体に意味は全然ない「ぐるぐるぐるぐる」が、少しづつ負担になっていく。回っているだけで、しんどい。省エネしたい。なのに、回ってる。乾燥が足りてないのか? 洗濯物詰めすぎた? 疲れる。

言葉にできない倦怠感が、募っていき「山ごもりしたい」という欲求を募らせていった。この期間は、コルクラボの合宿で山田ズーニーさんのワークショップに取り組むことを目指してしのいでいたくらい、とても楽しみにしていたのだ。

そして、1泊2日、計10時間程度のワークショップを受けてどうなったか?

「デトックス」だった。

ダイエットのために「断食合宿」のために山ごもりする人がいて、私はそういう友人の話を「わざわざそんな場所へ行かなくたって食べなきゃいいのに」と思って聞き流していたが、今なら超わかる。わかりすぎる!

「わざわざ、その時間と空間を作って身を置くのが大事です」、ということでした。

この2日間は、トンネルから抜け出るような、そういう体験だった。そういう意味では、思っていた内容とは少し違った。私は、「自分を知る」ことをしたくて今回、このワークショップに参加した。ズーニーさんが、コルクラボの文化祭で、サディと対談した時にそういう話をしていたし、著書でも「じぶんの言葉をつむぐ」という話をしていたから。

てっきり、自己分析をゴリゴリと1人でやるもんだと思っていた。実際は、そうではなく、もっと風通しがいい気持ちがいいものだった。

ペアになり自分を知る壁打ちになってもらう。そして参加者全員でワークショップで見つけた言葉を発表し、それを聞いていく。ワークを受けていた10時間、1人になるのは文章をまとめるために使った約1時間ほどだけ。それ以外は、他者がずっと介在していた。

ワーク参加者54名(+ズーニーさん)。この書き手54名と関係があった文中に登場する人、54名。合計108(+ズーニーさん)人の人が、じぶんの心の中を行ったり来たりする体験は、生まれて初めてだった。

文字にすると、「まあ、聞いてるだけでしょ」と思うでしょ? 違う、そこじゃない。108人のドラマをダイジェストで見てきた、と言ったら伝わるかもしれない。全員が、売れっ子シナリオライターのようだった。

私は、中学生の頃シナリオライターになりたかった。自分で書いて、全然才能がなかったのだが、理由がわかった気がする。

私の心には、他者がほとんどいない。いや、いるのだけど逆に居座りすぎるのかもしれない。

この2日間でようやく、そこにたどり着けた。

私は、誰かを見ているけど、「私を見ている人」の側から「私」を見ようとしたことがない。いつも、私は、見る側の人なのだ。

ズーニーさんは、「自分が言いたいこと自分が伝えたいことじゃないかもしれない」ということも、言っていた。パッと頭に浮かんでいる言葉や言いたいことは、表層的なもので本当に伝えたいことはもっと奥の、奥の方にあるんだと。それが「根本思想」というあなたの想い、だと。

私は「根本思想」には、まあまあ気がついている方だと思う。なぜって、いつも話し相手は自分だし、自分に問いかけているから。

でも、それを伝える気がなくて、その習慣もないし、そもそも欲求がほぼない。離島でネットもなく1人で生きているのと変わらないんじゃないかなと、思うときもある。それは、寂しくないし、苦痛でもない。

もう1つ。このことを(つまり、自分が見る側の人間だということ)考えるきっかけになった出来事がある。それは、ワークショップ以外に夜の時間で語り合った「子ども哲学」だ。コルクラボの10人くらいの人とやった。テーマは「孤独とは」。

ここでは、孤立と孤独、の話にも言及していた。他者に理解されたい・つながりたい欲求から絶望に発展する人の話を聞いていたが、あんまりピンとこなかった。やっぱりここでも、私は私と話していたのかもしれない。

まだ考えがまとまっていないから、とりあえずは「人に伝える」ことを体験したことが自分を知る最上の自己分析だった、ということでいったん結論づけようと思う。



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