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チョキくんのこと

就寝前、部屋の明かりを消す直前のことだった。
私の膝に座ってくつろいでいた5歳の息子が、唐突に「今日ザリガニ死んじゃったんだよ!」と、嬉々として話し始めた。

そのザリガニは夏になる前の頃、保育園の先生の誰かが持ってきてくれ、教室で飼われていた。チョキくんと名付けられ、子どもたちが代わりばんこに餌やりをしたり、同様に先生が採ってきたクワガタと並んで可愛がられていた。

死んでしまったというので、それじゃあお空に帰ったんだね、と返した。
そうすると勢いよく「違うよ、園長先生のお部屋の後ろの、クワガタを埋めたところの土に入れたんだよ!」と訂正された。クワガタもやはり、夏の終わりに弱って死んだのだった。

彼の曽祖母が亡くなった時に、大ばあばは星になったよ、と話していたので、同じ調子で空に帰ったと話したけれど、この理屈だと話がうまく進まない。
仕方がないので、じゃあ土に帰ったんだね、と言い直した。自然に帰るという意味では間違いではないし、これも正しい。寒くなったから死んじゃったのかもね、とも話した。
その後もまた餌やりしたい、とか、触ったらびっくりしちゃうから見るだけなんだよ、とか、ザリガニの話が続いた。
しばらくして「早く夏にならないかな、チョキくんにまた会いたいな」と言った。プールに行きたいな、と言うときと同じような調子で。夏になれば当然のように、また会えると思っているに違いなかった。
どう伝えるべきか一瞬悩んだが、ありのままに言うことにした。チョキくんは死んじゃって土に帰ったからもう会えないんだよ、と。なるべく感情を乗せないように淡々と伝えた。

膝の上でくねくねと落ち着きなく動きながら話していたのが、ふいに静かになった。
すると、小さく丸まった背中が震えて始め、肩にもたげた頭がみるみる熱くなった。
私の腕にしがみつき、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
悲しみは言葉にならず、シクシクと泣き続け、その日はそのまま眠りについた。

寝かしつけながら、私は違う意味で泣きそうだった。
ザリガニの死についてはこれっぽっちも心は動かないが、愛着ある生き物を悼んで一生懸命悲しんでる息子の心を思って、胸がいっぱいになった。
つい5分前までは、今日の給食ハヤシライスだった、と言うのと同じくらいの軽やかさで、今日ザリガニ死んじゃったの、と言っていた息子。そのときは私も思いもしなかった。こんなタイミングで「死」について伝えることになるなんて。私も息子も、なんの心の準備もなかった。

次の日、保育園に迎えにいった帰りに、園舎の裏のチョキくんが埋められたところで立ち止まり、2人で手を合わせた。
帰り道では真っ暗な空に光る星を見て、いつも通り「大ばあばのお星様、見えた!」と息子は言った。

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