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メリデン版訪問家族支援 | #9

▼前回の話はこちらから

#6の投稿では、精神医療をよりよくしていくことが、子どもがケアすることを強制されないために必要なことの一つだと書いた。

それでは、精神医療はどうなるとよいだろうか。勉強するなかでこれは導入されていくとよいと思った3つの試みを前回に続き紹介していく。


3つ目は、イギリスで生まれたメリデン版訪問家族支援という精神疾患のある人を含めた家族に対して支援者が訪問によって提供する支援である。入門研修を受けたことがあるのだが、この支援の根本には以下の考えがあるそうだ。

家族を本人の「家族」としてとらえるのではなく、家族も「社会に生きる一人の市民」としてとらえる(研修資料の佐藤純「家族が求める家族支援」より)

この考えを聞いたとき、私はとてもうれしかった。

私はケアラーであることに嫌気がさしていたのだと思う。ケアから学んだことは大きいしケアそのものを否定している訳ではないが、子どもの頃から続いているケアの負担に限界がきていたのだろう。

ケアラーであることをどこか仕方ないことだと思っていたが、そうではない。ケアラーである前に家族は「社会に生きる一人の市民」なのだ。 

まず「社会に生きる一人の市民」であることが守られ、次にケアラーであるかどうかが選択できないといけないだろう。ケアラーであることが強制されるべきではない。


実際の支援では、メリデン版訪問家族支援の考えに基づいて本人だけではなく家族一人ひとりのアセスメントも行われる。

家族はケアラーを選択しなかったとしても、ケアを要する者の影響を受けケア役割に巻き込まれやすいだろう。ケア役割を担っていくうちに、ケアを要する者を中心とした生活となるため自分のことは後回しになりやすい。

ケアラーであるかどうかに関わらず、家族一人ひとりが支援される必要は大きいだろう。

特に子どもは、私がそうであったが、罪悪感や責任感を覚えやすくケアから離れづらい。支援をきっかけに、子どもが自分のことを見つめていくことは子どものもつ可能性を拡げていくことにもつながるのではないだろうか。


また、メリデン版訪問家族支援にはこのような考えもある。

本人のケアをすることによる「社会的排除」、つまりケアする役割を担うことにより、社会で活躍したり生活を楽しんだりする機会が失われることを社会で解決すべき問題と考える(前掲資料より)

子どもがケアをしなければならず「社会で活躍したり生活を楽しんだりする機会が失われること」は、子どものときに限らず後の人生においても大きな影響を及ぼす。

#5にも書いたが、ケアすること自体は問題ではない。ケアそのものは否定されるものではないが、ケアするかしないかを選ぶ自由がないことは問題である。先にも書いたように、ケアラーである以前に「社会に生きる一人の市民」なのだ。そして、ケアすることを選択したとき、上記のような様々な機会が失われることもまた問題である。

これらの問題を解決していこうと思ったら、ケアを家族だけではなく社会で担うものだと捉えていく必要があるだろう。まさに「社会で解決すべき問題」である。

そもそも、家族のみでケアが行われることに限界はないだろうか。


私の場合、中学1年生のときに母が入院し、続いて中学3年生のときに父が入院したので、子どもが家事などのケアをせざる得ない状況になった。家族機能はかなり脆弱だった。

それでも、親族や友人などに助けられて何とか生活できた。家族のみで何とかしなければいけない状況だったら、私はどうなっていたかわからない。


また、私は大人になって勉強するまで、母の診断されている病気がどういうものかわからず、生身でぶつかり関わってきた。

ただ、勉強して知識を身に着けたからといって、常に穏やかに母と関わることができるかといわれたらそういう訳ではない。

家族は家族。支援者にはなれない(p.5)

これは『静かなる変革者たち 精神障がいのある親に育てられ、成長して支援職に就いた子どもたちの語り』に出てくるヤングケアラー経験のある支援職の方の言葉だ。専門性を身に着けても患者と関わるように家族と接するのはむずかしく、家族は家族としてしか見れないという。

切実な言葉であり、強く共感した。家族だからこそ様々な感情が生まれるし、家族内でのケア関係はこじれやすいものだと思う。メリデン版訪問家族支援といった家族の助けになる支援が介入することで、救われる家族はかなり多いのではないだろうか。


ヤングケアラーに関する文章を複数回に分けて投稿してきたが、次回の投稿で最後になる。最後は、ヤングケアラーへのまなざしについて書く。

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