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当事者のニーズがぶつかりあうとき|#2

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高校を卒業して、私は家から離れて大学に進学し就職をした。家から離れたことで、諸々の気にかけていたことからも離れられたように思い、自由に生活をしていた。

一方で、母は引き続き入院をしていた。母の日や母の誕生日、実家への帰省にあわせて会いにいっていたので、この頃私は年に数回ほどしか母に会っていない。すでにこの時点で母は10年ほど入院をしている。ここからは、私が20代後半に母の退院に向けて私が抱いた葛藤や気づきの話になる。


あることがきっかけで、中西正司と上野千鶴子の『当事者主権』を読んだ。これが私に本当に大きな影響を与えた。

どのような本かというと、社会的な弱者といわれる人々-女性、高齢者、障害者、子ども、性的少数者、患者、精神障害者、不登校者など-の「私のことは私が決める」という当事者の要求または権利について書かれた本である(pp.4-5)。

そこで「家族ではなく当事者への支援を」という一節に頭を殴られるような文章があった。

当事者と家族のニーズは、しばしば異なる場合がある。家族は決して運命共同体ではなく、親は子どもの利益を代弁しない。たとえば、四六時中介護や介助をしている家族にとっては、せめて日中は要介護の高齢者や障害児・障害者にデイケアセンターや作業所にいってもらって、ほっと一休みしたいというニーズがあるだろう。一方、当事者にとっては、家族といつもいっしょでは、ついつい口論になってしまう、なんとか週に一度でも家族と離れて過ごしたい、家族以外の介助者と、気兼ねなく外出したいというニーズがある。両方の言い分を同時に満たすことがむずかしければ、当事者の意向を優先することが重要だが、実体は、家族の発言権のほうが強く、当事者は家族の意向に気兼ねして、気には染まないが、作業所やデイケアセンターを選んでしまう、ということも起こる。介護・介助を受ける側はどうしても弱者の立場に立たされてしまう。当事者の真のニーズはここでは隠されてしまい、表には出てこなくなる。家族といえども、権力関係のひとつである(pp.91-92)。

私には、この文章と重なる経験があった。

私が高校3年生の秋頃のことである。受験勉強に必死になっていた頃だが、母がこのまま入院していてもよくなる見通しがないことから退院して家で生活をしながら様子をみることになったのだ。

母の見守りは必要で食事の用意もしていた。これまでの日々の家事などのしんどさにさらなる負担が加わり私はとにかくしんどくなっていた。親子関係が反転しているような生活の受け入れがたさもあった。また当時は、母との関わり方がわからなくなっており、母と過ごすことにもしんどさを感じてしまっていた。

受験勉強に一心に取り組みたくてもとてもできる環境ではなく、私のしんどさは増していった。母が退院して2週間程たった頃、私は父にいまの状況が耐えがたいことや母を入院させてもらえないかを伝えた。

そして、母は再び入院することになった。

(詳しくは省略するが、日本には本人が同意していなくても一定の条件が整えば入院させることができる医療保護入院という強制入院の入院形態がある。ちなみに、当時の私はこのような入院形態があることを知らずに上記の行動をとっている。)


私はこのときの経験と先に挙げた文章を重ねながら読んでいた。

私は母に権力をふるったのか。母は入院を望んでいないのに、私が入院させたのか。長い入院期間の間に、母はもっとたのしい生活を送れたかもしれない。それを私が奪い、取り返しのつかないことをしてしまったのか。と、自分のしたことにひどい罪悪感を覚え、無自覚に母に権力をふるっていた自分の加害性にもこわくなった。

ひどい衝撃を受けたからか、この頃からここに書くのを控えたようなトラウマ的な出来事がフラッシュバックするようになっていった。


一冊の本からとんでもない影響を受けたのだが、この頃はケアラーの当事者性がなく、私はニーズをもっていなかった。どのようなことに傷つき、どのようなことを必要とするかを自覚していなかった。

次以降の投稿で詳しく書くが、ひどい罪悪感からとにかく母のニーズを中心に動こうとして、自分のことは後回しにしていた。そうしているうちに、自分のしんどさに気づけなくなっていた。


高3のときに再度母が入院することになったことを思い返しては、どうしたら私は自分のしたいことに専念できて、母は適切な治療やケアを受けることができたのだろうか、ということを考えさせられている。

それに、私や母だけが守られたらいい訳ではない。私も母も守られるときには、そこに私や母をケアする人がいるだろうし、そのケアラーのケアだって必要だろう。

誰もが何かしらの弱さを抱えていてケアを日常的に必要としているように思うのに、なぜケアをこんなにも遠く感じるのだろうか。特定の誰かが優先されるのでもなく、誰もが守られるためにはどうしたらいいのだろうか、ということを考えさせられている。

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