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切り株赤ちゃん爆誕!これは奇跡?それとも悪夢?映画『オテサーネク』の話

「桃太郎って、こわ ない?」
いや、子供の頃そう思っていた。
桃という乗り物に乗ってきた子供のように思っていたが、種子の部分にいるということは桃人間なのかな、と。
(なので、本来は“桃を食べて若返ったじいさんばあさんの間に生まれた子”と知ってホッとした)

植物系のクリーチャーに特別な思い入れがある。
『指輪物語』ではエントが好きだったし、スーパーマリオで遊ぶたびに『リトルショップオブホラーズ』のオードリーの記憶がよぎり、好きな平成ゴジラは『ゴジラ対ビオランテ』(開花形態のビオランテがトラウマ。『科捜研の女』観る度思い出しちゃう)。
ゲームの『FFX』ではグアド族がめちゃくちゃ怖かったが、『FFX-2』ですっかりお気に入りになった。

遡れば元々は幼児の頃、NHK『おかあさんといっしょ』の当時の着ぐるみ劇に出ていた、樫の木のキャラクターを私は異常に恐れていたらしい。

フィクションの中で“人のような(人のように描かれる)植物”は多数あり、それらと出会うたび、私は他の擬人化されたキャラクターとは違った何かを感じてきた。
それは動物を超越した美しさだったり、有機的であるはずなのにどこか無機的なような不気味さだったり。

そんな私の“植物系クリーチャー遍歴”に、新たなトラウマと愛着を植えつけた映画が『オテサーネク(原題:Otesánek・英題: Little Otik)』。
ヤン・シュヴァンクマイエルの傑作である(『ファウスト』も大好きです)。

正直、植物クリーチャー以外にも多数の描写に衝撃を受けたのだが、今回はその話をする。

(まず簡単なあらすじを書いたあと、警告文を挟んでネタバレ有りの感想や考察となります)

■『オテサーネク』あらすじ

舞台は一昔前のチェコ。
長らく子供を授かれない夫婦、カレルとボジェナ。
子供を望んだが、今回もまた残念な結果に終わってしまい、妻ボジェナは憔悴しきってしまう。
気分転換にと彼女を連れ出した別荘で、夫カレルは伐採した木の切り株を人の形に加工し、ボジェナを笑わせようとほんの思いつきでそれを見せた。

……が、ボジェナはその切り株に話しかけ、おむつをはかせ、産着を着せると、我が子として扱い始める。

ノイローゼ気味の妻に付き合ってしばしそれを見守るカレルだったが、ある日切り株人形は「ばぶばぶ」と声を発し……!?


※この先、展開やキャラクターに触れる内容の感想・考察となります。ネタバレ注意!!
また、映画のストーリー上、性的な内容を含みます。


□民話ベース×レトロアニメーション×シュヴァンクマイエル節が炸裂!幻想に微笑み嫌悪する感覚の渋滞

本作はチェコの民話『オテサーネク』をモチーフにしているそうで、
「子供のない夫婦が木の人形をこしらえたらそれが動き出して……」
という内容はそこからきている様子。
実際、映画の中でも主人公夫婦と同じアパートに住む少女が本を読み、絵本風のアニメーションで民話のストーリーが語られるシーンが挟まる。
(つまり劇中の人々は、オテサーネクという切り株赤子の話が存在する世界に生きており、幾人かは民話として認知している。主人公の夫もオテサーネクからとって「オチーク」という名前を切り株赤子に命名する)

この民話パートのアニメーションは、絵本の挿し絵をそのまま動かしたかのように可愛らしく、滑稽で、古めかしい牧歌的な質感だ。

対して、ストップモーションで作られたと思われる切り株赤子・オチークの動きはめちゃくちゃに不気味である。
映画全体から漂う、2000年の映像作品であるとは思えない雰囲気の画面演出にくわえて、思い切りカクつき、ゴワゴワ動く挙動はお世辞にも生物的とはいえない。
これは技術的な問題ではなく、狙ってそう作られているのだろう。

明らかにただの切り株、から、明らかに化け物然とした存在、として描かれていくオチーク。
それに狂気的な……いや、母としてはあくまでも普遍的な愛情を注いでいくボジェナ。
ストーリーの主軸はこのナンセンスコメディ的なファンタジーだ。

しかし、シュヴァンクマイエル節とでも言おうか、脇を固める演出やアート的・抽象的カットがこの作品をただのコメディファンタジーではいさせない。

冒頭で、子供を授かれなかったという結果を夫婦が知ったとき、夫は肉屋?が赤子を水にさらしているような場面を幻視(もしくはイメージ?)する。
このシーンに始まり、映画全体を通して“意味深だが説明がなされない、でも確実に不快感を煽ってくる”描写がてんこ盛りだ。

まず、食べ物や食事シーンから漂う圧倒的な汚ならしさ。
登場人物の食べ方や、食べ物の映し方に「美味しそうさ」が無く、嫌悪感を抱かせる。くわえてシュヴァンクマイエルの得意とする性的メタファーと思われる描写を加えたりと、徹底して食べ物をネガティブに描いている印象を受ける。
オチークの悪食よりも人間の食事シーンの方が気持ち悪い感じだ。

□少女アルジュビェトカというキャラクターの陰影

そして何と言っても、主人公夫婦と同じアパートに住む小学生くらいの少女アルジュビェトカ。
主人公夫婦の不妊を冷笑したり妊娠経過を下世話に観察したり、親に性知識を語ったりと、まあ可愛くない“嫌な子供”である。

しかしアルジュビェトカのキャラクターはそんな「憎たらしいマセガキ」という属性だけのものではない。

性的なものを知り、興味を持つ年頃の少女らしく、周囲の男性(大人)から己に性的な目が向けられている事を認識し、嫌悪している。両親さえ娘が変態の性欲の対象に見られているのを気づいていないのに、だ。
このアルジュビェトカの描き方は毒々しくも個人的には秀逸と思えた。
多くの人が思春期に経験してきたであろう、知り始めた性知識や自身の成長と、周囲の大人の持っている性欲や、性的におかしい人間の存在への気持ち悪さの間に挟まれるあの感覚……大人になって尚思い返して直視したくない程の、思春期特有の“目覚めた自覚から来る気持ち悪さ”を、ありありと描いている。

また、彼女は同時に、自分が性的に価値がある事も自覚している。
彼女にいやらしく接する変態の老人との絡みは本当に嫌悪を煽るが、後半、オチークの姉のような母性を抱いた彼女が、老人の性欲を利用するシーンは強かな痛快さ、子供のずる賢さに満ちている。

それは同時に、彼女が初めて見せるがむしゃらで無茶な子供らしさ(オチークを守ろうとする執着)のシーンでもあるのがまた良い。
好奇と冷笑と疑いを他者に向けるマセガキとして登場したアルジュビェトカは、映画の後半、己の性を餌に他者を利用する大人の汚らわしさと、民話を信じオチークをどうにか守ろうと可愛がる子供の純粋さがないまぜになった愛すべき少女となる。

人によってはアルジュビェトカ周りの表現もまた当然のように嫌悪の対象だろうし、その他の不快感にうったえかける諸々の要素からこの映画を「気持ちの悪い作品」とか「悪趣味な作品」と感じる人がいても何ら不思議ではない。

だが個人的に、私にとってこの映画は素晴らしくて大好きな作品だ。
その理由は簡潔にまとめると以下である。

□アートしつつも“ぼかし逃げ”しない作品性

noteでも何度か書いてきたが、私は
“アートに振りきっていて、はっきりとした答えはおろかヒントすら出さず、観客に解釈丸投げの作品”
が好きではない
。特に映画では。

「観ただけで伝わるように作られていないもの」にあれこれ考える楽しみがある事は否定しないし、考察と解釈を観客に委ねる作品の存在や問いかけとしてのスタイルとしては非常に意味のあるものだとは思っている。
(余談だけど、作り手はこの手の作品を作るなら、伝わらなかった時に観客をdisるなよ伝える力が足りなかったんだろうが、とも常々思う)

ヒントや幾つかの可能性が示唆される等、考察や元ネタ漁りの楽しめる余地がある作品は好きだが、考察必須で映画では全くヒントも答えも出さず、フワッとした抽象的表現のみで描ききりました!答えはお前らの中にあるんだぜ!みたいな作品は好きになれないのだ。

『オテサーネク』には、冒頭の赤子水洗い描写のあたりでこの傾向を警戒したが、結果として真逆だった。
起承転結に関しては全くぼかし逃げしていない。それがとても好きだ。

映画の中でメタファーや抽象的表現は多く挟まれるがそれはあくまで味つけレベルであり「ここがこうなりましたよ」という展開上の結果としては用いて来ない。

オチークが人を襲うところでははっきりと流血や骨を描いているし、民話上のオテサーネクの死のラストを紹介した上で、それをなぞる展開をきっちりやってのけた。

想像力にうったえかけ、観客それぞれに解釈を委ねるアート性を調味料やデコレーションのように纏いつつ、話の筋や展開、結末は一切ぼかさずアートに頼らずはっきりと描き、ストーリーを追ってきた観客にストーリーの消化不良を残さない。
これは個人的にかなりお気に入りポイントだ。

切り株が赤子として動き出した現象にもあれこれ茶々を入れたり謎解き要素にしたり理由をドラマチックに描かず、ただ「民話に書いてあることが現実に起きている」というスパッとした描き方なのも良い。

そしてこの作品は、しっかりとクリーチャーホラーであり、民話から飛び出したファンタジーであり、ナンセンスな展開と人々の混乱に笑えるコメディである。
映画の“お話”としてこれだけの要素を抑えつつ、更に同時に、唯一無二のセンスを抽象的に叩きつけてくるカオスなアートである。

アート性と物語性の両立。
抽象的な、いかにもアート的描写を多用しているのに、(分かりにくいのはその表現のカットだけで)話の筋は少しも分かりにくくない。
ここがとても気に入った。

オチークがばぶばぶし始めた時、おそらく観客の少なくない人数がオチークを「可愛い」と思っただろう。
だが、オチークがすくすく育つにつれ、最初に抱いた「可愛い」の感情はみるみる薄れ、ひたすら怪物性にドン引きさせられていく。
そんな観客とは真逆に、“母親”であるボジェナはどんどんオチークに傾倒し愛を深めていく。この画面の外と中の温度差も映像体験として実に滑稽で面白く、また恐怖でもあり最高だった。

オテサーネク(人食い木)のオチーク、我が人生の植物系クリーチャーお気に入りランキングで、そして恐怖ランキングで、颯爽とトップに躍り出た存在である。

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