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映画『ノーカントリー』を知らなかった私が七三分けおかっぱの殺し屋を見つめた話(ネタバレ有感想・考察)

とある繋がりの映画好きの方が、オススメ・お気に入りとして上げてらした映画『ノーカントリー(原題:No Country for Old Man)』を観た。
きっかけは本当にシンプル。
その方はオススメとして“良さ”を詳細に推すレビューを書かれていたわけでもなく、私の好みに合わせてとかで個人的にすすめていただいたとかでもなく、
「好きな怖い映画」
としてさりげなくこの映画のティザービジュアルのみを上げられていて。

私は兼ねてから、この方のセンスがとても「いいな」って思っていた。

私もミギーが好き。富江は宝生舞さん派。そんな風に好きなものが重なる事もあれば、お気に入りのピンク色のキャラクターはというとその方は任天堂の某星の若者・私はクランゲ(忍者タートルズの脳みそ型エイリアン)という凄まじすぎる差を痛感したりもし(笑)。
私と重なるものもそうでないものも、感性の幅が本当に広くて。
そして映画に関してもジャンルを問わず本当にたくさんの作品を鑑賞なさっていらっしゃる。

なので、純粋にこの方の「お気に入り作品」ならぜひ観てみたいな、と。

そしてそして更に、(待ってまずツッコまずに聞いて欲しい)サブスク時代となった数年前からは年間(再チェックも含めて)150以上は映画を観る私なのに、この『ノーカントリー』観たことも聞いたこともない映画だった。
なので、取り敢えず作品詳細を見てみる。
……2008年アカデミー賞受賞作品!?

ウソだろ、アカデミー賞?
アカデミー賞の映画なんて(観たことはなかったとしても)大体名前くらいは聞いたことがあるはずだろ……
2008年の私一体どこに目をつけて何を観……(当時の公開作品を検索)『屋敷女』に夢中やが!!!

(※この記事を読んで下さってる方には、これで私の好きなジャンルのニッチさが伝わったと思う)

……というわけで、早速2008年アカデミー賞受賞作品『ノーカントリー』を作品内容の予備知識無しでおもむろに観てみました。

※ここからは本編の内容・展開・登場人物・ラストに触れながら個人的な感想や考察を書いています。
ネタバレ注意!

□混沌として無情。それがこの映画か?いや、それが“世界”か

狩猟の途中、殺しあったギャングらと、彼らのクスリがらみの大金を見つけ、その金を持ち去った男・モス。

モスが持ち去った金を取り返すべくギャングに雇われたつかみ所のない殺し屋の男・シガー。

命を狙われ逃亡するモスと、シガーの起こしてきた殺人事件を捜査する保安官・ベル。

彼らの足取りはひとつなぎである。

チーズを盗んだネズミ

飼い主のチーズを盗んだネズミを追って暴れる猫

ネズミと猫の危険な騒動を嗅ぎつけて追う犬

の追いかけっこのように、だ。

物語はこの三人の行動でつながり、彼らそれぞれの物語が切り替わりながら進んでいく……と思いきや、この三人の物語は“つながらない”。

誰もがーー観客だけでなくモス、シガー、ベルらでさえもーーつながっていると思っていた、つながっていき、つながっていたはずだったストーリーは、まるでボタンを掛け違えるかのようにしてバラバラに解離していく。

シガーに追われ撃たれ、追い詰められていったモスを殺したのはシガーではなかった。
二人を追い続けた保安官ベルは、モスに追いつくこともシガーの尻尾をつかむこともできなかった。

こんな「裏切り」のような展開と帰結こそが、この作品のおかしみであり独特の“静かで不条理などんでん返し”だと私は感じた。

まるで、ロープを切ったはずがつながっている、というあのトリックの手品の、真逆だ。
一本だと思っていたロープは、種明かしされた時には三本の別々のロープでしかなかった。

「いつからロープはつながっていると思い込んでいた?何故モスを殺すのはシガーで、ベルはその現場を阻止しに現れると何を自動的に“思い込んでいた”?」
とばかりに、淡々と突きつけられる結末。
ベルが駆けつけた時には既に、モスはシガーでない別の誰かに殺されていた。
一つにつながっている、最後にはこの二人が対決する!と思っていたモスとシガーの足跡は突如として別々に途切れ、無自覚に決めつけていたモスvsシガーの展開が訪れず愕然とする観客の脱力感に重ねるように、保安官ベルは決意する。
「何も分からなくなった。保安官を辞めよう」
と。

一言で言えば、ままならない混沌を描ききった物語……という印象だ。
こうだろう、と思えたはずのものがあっさりと別の結末を迎え、それは誰にも分からず、止められるものでもないという無情。

これを最も体現しているのが殺し屋のシガーのキャラクターである。
無秩序に人を殺す彼だが決して無軌道というわけではないらしく、常人には理解できない彼なりのルールのようなものがあり、その「己の価値観」と「コイントスの偶然」という自分だけのルールに則って行動し続ける。

そんな、世間の秩序とは無縁の、混沌が服を着て歩いているような彼が、
「世間の超基本的できわめてありふれた秩序」である交通信号
を何気なく当たり前に信じ、青信号に則って車を走らせた時に大事故に逢ってしまうのだ。

何という凄まじい皮肉だろう。
混沌そのもののように生きてきた、人の心の無い無情の殺し屋でさえ、些末な秩序とそれを破った予期せぬ混沌によって、因果の無い流血に見舞われてしまうという、無情。

□そう世界は混沌として無情。しかし……

ラスト、保安官引退を決めたベルが、眠れたかと問いかけた愛妻に夢の話をする。
亡くなった父が出てくる二つの夢を見た、と。

一つは「父に貰ったお金を亡くしてしまう夢」。
もう一つは「寒さの中を歩いていると明かりを持った父に追い抜かれていくが、ベルは先に行ってしまった父がこの先で火を焚いて待っていてくれる事を確信しているという夢」。

私がふと感じたのは、前者の夢は
「自分の意思とは関係なく、何かをもらったり失ったりする」
という、人生の中の幸福と悲しみの象徴として。
後者の夢は
「辛い道のりの中で辛い別れはあるが、その道のりの先にはきっと安らぎがあり、別れた人は必ず見守っていてくれる」
という、人生の中の苦痛と希望の象徴として。

不条理な世界に疲れきったベルに、亡き父がくれた、そして、煙に巻かれて放心する観客に監督がくれたメッセージのように思えた。

混沌として無情な、いつ何が起きるか分からず、思い描いた通りにならないこんな世界は、それでも、理不尽な悲しさ辛さだけの世界ではない。
ふとした幸福もあり、苦境の中でも大切な人や希望の光を信じ歩く事もできるのだ、と。

……予備知識何も無しのクリーンな頭で一回観た印象はこんな感じ。
ひょっとしたらもっと複雑なテーマだとか、何かの暗喩が盛り込まれているのかも知れないし、シンプルに出来事を追い観終わった時
「……で?」
となってしまう人もかなり多そうな作品ではある。
テーマやメッセージ性に関しては難解な作品かも知れないが、何の謎も残らないという点では消化不良になる類の難解さは無い。

“アートに振りきっておりはっきり答えもヒントも描かず考察を強いられる作品”が嫌いな私でも、芸術性を自然に楽しめて、ストーリーには何の消化不良も残らなかった。
ギャングの金を巡る一つのーーいや、一つになりかけて、三人それぞれに結末を迎えたーー出来事を描いた数千枚の絵画を見終えたかのような、ほろ苦く、けれど淡々と並べられた画達からは大きな感情の揺さぶりの余地など与えられなかった、まるで美術館を出た後のような、独特の後味。

□徹底された静寂の中で淡々と行われる暴力と流血の“画”

この映画の「ヤバいな」という個人的なお気に入りポイントに、BGMが一切存在しない、という所がある。

先日観た『ザ・ヴィジル~夜伽~』という映画がかなり独特のBGM演出だったため、『ノーカントリー』のBGMはどんなのかな~?と偶然冒頭から気にかけていたのだけれど、いつまでたっても音楽が流れない。
流れた!?小粋なラテンのノリ……と思ったら、何かドンタコス軍団みたいな人達が演奏していただけで、やはりBGMは無い。
一貫している。

この徹底された静けさが、登場人物への感情移入の道を作らず、観客を徹底して観客=傍観者、のままの距離感に足止めさせる。
たとえば、モスが追い詰められるシーンで緊迫感あるBGMを流せば、観客はモスに感情移入し、いつシガーに襲われるかのモスのドキドキを共有する。
ベルが駆けつけた時、既にモスが遺体となっていたシーンで悲しいBGMを流せば、観客はベルの無念さやモスの奥さんの絶望を共有し感情移入するだろう。

しかしこの映画はそれをしない。
音楽を使って登場人物の感情を表したり効果的に観客に伝えようとしないのだ。
これにより、観客は最初から最後まで、モス・シガー・ベルの三人を
「逃げる泥棒」「変人殺し屋」「真面目保安官」
という何の感傷的な補整もない捉え方で見届ける事ができる(というか、感傷を挟まない事を強いられる、と言ってもいい)。

ただ起きている事を見届けろ、とばかりに感情移入を制しておきながら、しかし、構図や画の美しさは秀逸。
暴力や流血ですらも、無表情で広大な荒野であったり、ホテルの照明の淡さであったり、人物の突飛な仕草であったりが効果的で、いちいち絵葉書のようにグッと引き込まれる魅力がある。
繰り返しになるが、美術館に並べられた数千枚の絵画を観ているようだった。

シガーが自分の腿から自力で弾丸を摘出するシーンは、痛そうな描写なのに何もかもシュールな画づらで見とれてしまった。
徹底して他者の血の汚れを嫌う神経質さ(ないし彼のルール)?はどこかユニーク。
漫画家の荒木比呂彦先生が描くのを得意とする“能力は高いが人として破綻している異常者・しかし一種人間的すぎる病的なこだわりがある”という悪役とか私は結構好きなので(笑)。
終盤、モスの奥さんと会って家を出、車に乗る前に靴の裏を気にしていたのは、あれ奥さんを殺していて、その血が靴に付着してないかチェックしてたって事なのかな。

□私が思うこの映画の「アカデミー賞受賞」の魅力

観終わったときの正直な第一印象は
「ウソだろ、アカデミー賞!?」
である。
(そう、事前に作品詳細を確認した時と全く同じ)
これは決して、駄作であるとか意味が分からないという事から出た感想ではない。
暴力が淡々と描かれた静かな絵画を観るかのような感触のこの映画には、感受性豊かなアメリカの人々が笑ったり泣いたり熱狂したりするような、心に強い感情を巻き起こす要素が一切無かったからだ。
なので、アカデミー賞受賞には素直に驚いた。だが、理解はできる。
『ノーカントリー』は、アメリカに生きる多くの人々の愛国心、そしてアメリカ人としてのアイデンティティに静かに語りかけたのだろう。

「この国は変わっちまった。もう昔のアメリカじゃない」
あらゆる世代、年代のアメリカ人が多かれ少なかれ人生のどこかで必ず感じてきたであろう、そしてこれからも感じていくであろう、アメリカに生きる者としての懐古や戸惑い。
この映画はきっと、アメリカの人々にとって「愛国」と「哀国」の物語として心に刻まれたのではないだろうか。

ティザービジュアルにある原題の『No Country for Old Man』は「この国はもう、老いぼれには向いてない」みたいなニュアンスであり、ラストで保安官を辞める決意をした、時代の移ろいに疲弊したベルの表情が思い出される。

ーーこれこそはと信じれるものが この世にあるだろうか
(中略)
古い船には 新しい水夫が乗り込んで行くだろう
古い船を 今動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も新しい船のように
新しい海へ出る

古い水夫は知っているのさ
新しい海のこわさをーー

吉田拓郎『イメージの詩』

□あなたへ(私信)

「映画好き」な人達と交流してもらっていると様々な作品をオススメされたりレビューを目にする事が多いけれど、たくさんの映画に触れてきた人がたまに
“この映画は上級者向け”
という言い回しをする所に出くわします。
私はこの表現が(スラング的な“上級者向け”はともかくとして)嫌いで、映画を観て何かを感じる事に上級下級があるのかよ?って思ってしまうんですよね。
ことカラクリが難解だったり、メッセージ性を読み取るのが難しい作品がこう言われる傾向があります。

『ノーカントリー』は、おそらく難解な「良さ」を持つ部類。
映画鑑賞数を重ねた映画ファンからは“上級者向け”の言葉で語られてもおかしくない作品に入るでしょう。アート的であり、はっきりとした起承転結と盛り上がりを持たない淡々とした流れや、暗示に富む描写の数々。

たくさんの映画やアニメや漫画に触れてきたあなたが、この作品を
「好きな作品なんだ、みんな観てみて!」
という言葉だけでオススメできる人であるその衒いのない感性、数多の作品に触れて来た経験があろうとも決して物見高く曇る事のない“映画好き”としてのそのフラットさに惚れる。

「どんな作品を幾つ観ても、いつまでも変に凝り固まる事なく映画を受け止めて、自分のものも他人のものも、好きと嫌い両方の感情を等しく伝え、受け止められる感性」
は、素人ながら映画を愛する人間として私がこうありたいと思っている形なので。

素敵な作品を知ることができてとても嬉しかったです。
プププ○ンドとディメンションX、愛する桃色キャラの出身地は異なれど、これからもお互い素敵な映画ライフを送れますよう。
包含着爱。Meisy.

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