見出し画像

「奥の細道」の出発点はどっち?千住論争

江戸の五街道といえば、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道です。五街道の起点は日本橋なのですが、品川、板橋、内藤新宿、千住せんじゅが江戸府中からの出口(江戸四宿)でした。

日光街道と奥州街道の出口である千住宿は今の千住大橋あたり。千住大橋は文禄3年(1594年)徳川家康が江戸に入府した直後に、隅田川に架けられました。隅田川で最初の橋だったということです。

千住宿は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へでかけるときのスタート地点です。
芭蕉は深川から船で「千住というところ」まで乗りつけ、1週間ほど逗留してから、旅だちました。

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

昔は千住宿という一つの宿場でしたが、今は隅田川を境に荒川区と足立区に真っ二つに分かれています。どちらも「千住○○町」とか「○○千住」というように、千住という名前を継承しているのでわかりにくいですが、千住大橋の南詰と北詰では行政区が違うのです。

芭蕉の出発地点が隅田川にかかる千住大橋の北詰だったのか南詰だったのかは両区にとって大きな問題です。
あの有名な「奥の細道」を観光目玉にできるかどうかがかかっているのです。
もしできなかったら「同じ千住なんですけど、うちは違うんです」と、説明しなくてはなりません。同じ千住なのにとても残念です。

そこで両区が南だ北だと主張して起こったのが「千住論争」。識者も呼び込んでの大論争。どちらも論拠は弱いので、決着はつきません。

南詰(荒川区)の論拠
芭蕉は江戸からみちのくへ旅だったのだから、江戸府内である南千住から大橋をわたっていったのだ!

(うんうんなるほど)

北詰(足立区)の論拠
深川から船で千住に来て、みちのくへ(北へ)旅だったのだから当然北側に船をつけるでしょ!

(そりゃそうですね)

千住宿は先に述べた江戸四宿の一つで、江戸の出入口となっていました。だから隅田川の南側は江戸で北側は江戸の外ということにもなるのです。

「奥の細道」に書かれていることだけではどちらともいえませんし、他に資料があるわけでもないので。これ以上どのようにも進まない論戦です。

両区とも論争自体をエネルギーに変えて、地元を元気づけようとしているようです。この論争は何十年も続いているのだそうですが、もともと決着をつけようと思って始めたものではないのでは、と思います。だって、言い合いしていたほうが楽しいですから

(いや、もし真面目に論争されているなら、両区の方々申し訳ありません。)

昔の千住宿は青物市場(やっちゃば)で栄え、関連する商家が軒を連ねていたそうです。街を歩いていると、それらしい看板が目にはいり、雰囲気を残していますね。

画像1
画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?