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言葉をあてる(リハビリ)

久しぶりに映画館で映画を観た。ひと月ほど前のことだ。「君たちはどう生きるか」。

同世代の多くがそうであるように、物心つくころから、かたわらにジブリ作品があった。

幼心にナウシカの凛々しい慈悲に痺れ、シータとパズーを胸熱く応援し、サツキとメイと共にトトロと遊び、紅の豚はまだ少し難しくって、初めて劇場で観たもののけ姫に圧倒された高校時代を経て、生まれ育った土地を飛び出した。無論、キキに憧れて。

大学生の頃、就活や卒論の合間に、夫となる人と共に東京で観たのは「ハウルの動く城」。後半に出てくる、ハウルがソフィのために用意した花畑。美しくて平穏で、なのにその峰の先の先には戦火がある。綺麗な絵空事なんだと、涙が止まらなくなった。社会に出る前のわたしは、あの花畑にいつまでも居たかったし、居られないことも、わかっていた。

「千と千尋の神隠し」「崖の上のポニョ」は、それぞれの主人公の年齢で観てみたかったなぁと思いながら、テレビで観た。たしか。なぜ劇場へ行かなかったのだろう。

「風立ちぬ」は、次女を妊娠中に、切迫早産で入院中のベッドの上で観た。時代と病に翻弄され、ひりひりと、せつせつと、生きる2人の姿が、長女の育児の只中にそれを離脱して、「ただ寝ている」をしなければいけなかった3週間の中で、とても眩しく感じられた。生の輝きには、痛みやかなしみもまた、内包されている。お腹で育む生との、不思議な対比。

そして今作。「君たちはどう生きるか」。

前情報のないまま、めくるめくストーリーにすっかりと飲み込まれて、あっという間のエンディング。涙が流れた。

すぐに言葉を探すのが惜しく、少しずつ、少しずつ、また観たいなぁという気持ちを抱え、ひと月置いて(その間、漫画版のナウシカを読み返し、村上春樹の新作を読み終え、村上春樹の旧作もまた読み返しながら)、また、観た。

「この先どうなるんだろう?」から、「ここ、どういう気持ちだろう?」へと味わいが増して、丁寧に観てもなお、涙の出るところは同じ。本音をぶつけられることによって、本当の気持ちが定まるところと、重々しい誘いを軽やかに断る若さが瑞々しく眩しいところ。どちらも希望だなと思う。

内的世界を、澄まし覗き込む、外的世界の悪意が波紋となって水面が揺れる。見通せなくなる。それで外なる悪意を憎むのだけれど、実は内なる悪意が水を中からも濁らせている。
聡明は理想を追い求めて、その内なる悪意を見逃してしまう。

悪をも内包した混沌を抱え行く。世界を、自分を、見放さないしなやかさ。若者はそれを瑞々しく選び取る。友達をみつける、という言葉が、眩しくて眩しくて。

誰かの悪意に散々傷ついてなお、誰かを傷つけずには生きていけない、というここ(不惑)に来ての体感。誰かと結びつく喜びと、誰かと離れゆくかなしみ。立場が変われば正義も変わるという、世の中の難しさ。善とは、悪とは…

今年の夏は暑すぎて、ヒヤリとするところまで、潜りすぎてしまったのかもしれない。その暑さとヒヤリの疲労に、しみた。

二度目の鑑賞の最後、エンディングの深く力強い歌詞と歌声に、声を殺して泣きながら、これは40歳の孤独だ、忘れずに刻もうと思った。今、観られてよかった。

疲れたけれど、休んでまた、誰かに会いに行こう。飽き足らずに。光に触れて、影を伸ばして。
「地球儀」を繰り返し繰り返し聴きながら、思っている。


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