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高倉さん家の雑談(9) 自宅にあるアートについて

しばらく間があきましたが高倉家では一瞬の出来事でした。

なのでまた今後ともよろしくお願いいたします。

いつも通り、これは劇作家の高倉麻耶とその夫Y.G(わいじー)の他愛もない雑談をメモしたものです。

少々勝手な決めつけや独断偏見の類は笑い飛ばしてください。



・そこにあるサンプル

夫:この間、イケアに行った。家の中のレイアウトサンプルがいくつもある。オブジェクトや、絵、写真が飾られていた。サンプルとしてあるということは、お客さんが憧れる部屋のイメージということ。つまりは、「今はそうなっていない」と考えている。

妻:まあ、普通は雑然としちゃうよね。

夫:それもだし、憧れるってことは、絵とか飾らないのが普通なのかなと。あとは、飾る人はイケアで買うのかな?

妻:イケアでは買わないと思う。

夫:でも売ってるよ。いろんな種類。

妻:私の感性なのかもしれないけど、サンプルがあって、サンプル通りのものを買うのは、普通すぎる。サンプルにないものを私は求めてしまう。

夫:サンプルがあるということは、そのサンプルを再現したり、サンプルに近づければ正解になると判断するのではないだろうか。イケアが「いいよ」って言ってる、っていう根拠が持てる。

妻:買う人の感覚はわからないけど、たぶん、見て「いいな」って思ったら買っちゃうんじゃない?

夫:「いいな」って思う根拠が「イケアに提示されてる」からだと思う。妻は美術家さんだから、自分が「よい」って思うのは、おのれの感性に一定の自信があり、裏付けがある。他の人は違う。絵を買うときにイケアのサンプルレイアウトに飾ってあった。つまりは、店が「よい」と評価している。なら、誰に対しても「よい」と評価されるものであるはず。モノを評価するときに、万民が納得する、絶対的根拠の数値化ではない。

妻:評価基準の話だと、アートと、たとえばファッションが似てるってことかな?

夫:そういうことだね。


・評価の判断

夫:イケアとか、ネットとかで、売っている品を例としてアートポスターとか映画のポスターの複製とか、白黒の海外の風景とか、それを買って飾るとする。飾る以上は「よい」と判断してるわけ。私が思うのは、家に飾るものというのは、何を基準にしたらいいのだろうかということ。今までしゃべってたのは、すべて受動的。評価も自分で下してない。っていうふうにも言える。別の考えでは、評価をするスキルを持つ人が、選別したものからさらに自分で選ぶので、品質の保証がされている。

妻:一定以上ということね。それだと私が思うのは、百貨店の上の方の階で美術画廊があって、そこに置いてあるから大丈夫という、そういう基準の話かなと。

夫:そういうことです。美術を自分で作ろうとする人からすると、イケアだろうが百貨店だろうが自分が気に入らなきゃそれはいいものではない、ってなる。この自分の我が強い人と、プロにまかしている人、この二つは、行き来することなのか、隔絶しているのか。

妻:私はね、たぶんね、美術館に行くか行かないかだと思う。前に、よく行っていたカフェに女性の客がいて、でっかい絵を持ってた。それどうしたんですかってきいたら「買った」と。で、40万円ぐらいだったと思う。展覧会で観て、気に入って買ったと言う。それだけだったらそれで済む話なんだけど、私が絵を描く人間だということを話したら、この絵をどう思うかきかせてくれと。正直な話をしてくれと言われたのね。正直、私はあまり好きじゃないです、ただ人の好き嫌いですから、絵の絶対的価値ではないですよという話をしたら、その人はすごいガッカリして、自分には見る目があると思ってた、自分がいいと言うものは人もいいと言うと思ってたと。超ガッカリしてた。その人は、みんながいいと言わないんだったら、40万出した意味がないと言ってた。

夫:今の話に出てきた人は、ツッコミどころが多くて、まずは「みんな」というのを自分の知り合いとするか、不特定多数とするか、次に「みんながいい」というのは100%なのか、70%くらいか、三つ目に絵を描いてる人と絵を観る人、あと絵を売買する人、評価基準が違う。今回の場合、自分の知人に100%いいと言わせたいという気持ちに対し、絵描きにその人一人が気に入るかどうかを訊いている。極端なことを言えば、自分の知人全員を集めて、全員が無記名投票で「よい」と言った作品を買えばよい。確認もせずに買った以上はリスクをともなう。まだ友人・知人にきいてもいない段階で評価を下しているのもおかしい。

妻:「なんでも鑑定団」のせいかな……絶対的評価をする人がいて、値段が決まっちゃうみたいな。

夫:鑑定団はあなたの言った面がある。番組上、万民共通の価値基準として金額を採用した。お金であるから射幸心を煽ることにもなる。ただ、多くの人に対して、アートということの教育もできてる。例えば掛け軸とか、陶器とか、手入れをしなきゃいけないとか、直すことができること、そういうことも広げたと思う。悪い面でいくと、アートの価値は、高額でなければ意味がないという風に思わせる方向性をつけてしまった。あとはレアものでないと価値はないとか、もうひとつはアートは売るものと思わせた。

妻:画家についてとか、歴史的な勉強になる一面は確かにあると思う。でも、やっぱり一面的な価値観を広めてしまったというのはあるね。

夫:評価者の権威化をしてしまった。イケアしかり、百貨店しかり、もともとバイヤーがいたわけで、バイヤーの判断が自身の評価基準の一端になっているというのはあった。それが加速したと思う。

妻:落語の話になるけど、「はてなの茶碗」という噺があってね。

夫:露骨。それ(笑)。

妻:「はてなの茶碗」についてはウィキペディアを参照ということで。

夫:どうやったら他者の評価より自分の評価を優先するようになるのか。別に、自分の評価を優先することがまさっているとは言っていない。


・アキレスと亀

夫:僕が思うには、基本は他人の眼だと思う。それを無視してまで自分の評価を優先できるのは、何かの積み重ねの結果と思う。二つあって、一つは他の人が「いい」って言った、というデータの集積から、帰納法で「ここを押えたら他の人もいいと言うであろう」というツボを掴んだと考えて、自身の評価に自信を持つ。もう一つは、自分がいいと思うもの、その評価を積み重ねる。自分の中に、自分が評価するものは何かと練り上げる。その結果に自信を持つ。前者は人とのコミュニケーションでブラッシュアップする。後者はスクラップアンドビルド。ふと思うと、禅宗の曹洞宗と臨済宗だった……

妻:仏教にはたとえないほうがいいと思うな(笑)。今の話を聞いて、私が思ったのは、北野武の映画で「アキレスと亀」というのがあって、観た人しかわからないかもしれないんだけど、アーティストが主人公。で、評価をするのは周りの人。武が主人公のアーティストを演じてる。彼は若いうちからアートをやって伸びていくんだけど、その速度が速すぎて周りが追いつけない。彼は評価されなくて貧乏になっていく。道端のコーラの空き缶を拾って、10万円とか値段をつけて道端で売ってる。でもその頃、若い時に描いた絵がすごく高く売れて飾られていたりしてね。評価基準を相対的でないものとして捉えると、一線上に亀がいて、亀が先を歩いてる。アキレスはその後ろから亀を追いかけるんだけど、どんなに速くても絶対追いつけない。一線上で比で考えているから。実際に評価基準がひとつということはなくて、すべて絶対的なものは何もないというのが美術界での常識には一応なってる。

夫:今回のしゃべりの中で我々はブレブレなんだけど、アートに対して自分が何をもって評価するか。人の眼or自分の眼というのがある。次に、商売として、商材としての評価は需要があるかどうか。画家というのは食ってくためにやってるなら需要のあるものを作れるかどうか。道楽でやってるなら人の眼or自分の眼。人の眼ってやつが商材の需要とかぶってる場所があるからまぎらわしい。映画の話でいえば、主人公は商材は作ってない。世間っていうのは、商材の話をしてる。違う評価をまぜているわけよ。言い方変えると、主人公は食ってくための活動してないんだから、食えるわけがない。食ってくためには、商材つくって、流通網作って、営業して、広報して、マーケティングして、etc.必要でしょ? 食ってく画家か、道楽の画家かを描いてる人が混ぜてる傾向があるかもしれん。


・音楽と美術

妻:たとえば音楽の話にしてしまうと、美術は、音楽よりはちょっとわかりにくい。音楽はみんな、耳がだいたいよい。自分の好き嫌いで選べる。よしあしの判断もできる。美術はそれがしにくい。なんでだろうね?

夫:まず、話の前提として、戦争で一通りの文化が壊滅したとしよう。戦後にラジオがまずある。そこで音楽が流れる。電波なので広報はラクよね。かつ人の記憶で再現して品質はともかくもコピー情報を他人に伝えられる。それをベースに販売もしていく。その積み重ねで、音楽というものは身近であり、消耗品レベルのものとなり、単価が下がっている。だからみんなが手が出せる。売り手も「儲からない」って言いながらも一定のお金が手に入る。食ってける人もけっこういる、というのが音楽。絵は、音を鳴らすとかとは違って、一品一品つくらないといけない。人の記憶でデータコピーができない。音楽のように音データを電波に流して鼓膜に伝えるということをできない。やろうとすると画像データを電波に乗せて網膜に映し出すということになってしまう。

妻:確かに、一段落は違うね。縮小された状態で画像データを見たとしても、本物を見たときの感動はないからね。

夫:音楽はコピーすることで劣化するかもしれないけど、まあ素人にはわからん。絵は物理的に存在してて、コピーは、贋作という意味ではなく、紙に印刷したりとか、写真とかが該当するんだけど、視覚情報のせいか、素人でも劣化がわかる。音楽は伝えやすくて、コピーしやすくて、劣化に気づかれにくい。絵やアート作品は、伝えにくくて、コピーしにくくて、劣化に気づかれやすい。商材としてどっちがいいか。100年以上の積み重ね。そう考えると、絵とかを「商材だ!」と持ち上げた鑑定団は偉大だと思う。挙げたマイナス要素そのすべてを価値あることとした。

妻:文化的に、鑑定団はそうなる流れが時代としてあったかもしれない。テレビが普及して、写真が電波に乗って飛ばせるようになった。視覚的情報を共有しやすくなった。先ほどの話でいう視覚が聴覚に追いついたというかね。

夫:追いついてないと思う。音楽は、流れてたら勝手に耳に入る。受動的。画像・映像は能動的に目を向けないと入らない。本当に音楽と一緒にするなら、強制的に急に視覚情報に割り込むという技術にしないといけない。視覚に人は頼ってるので、そんなことやれない。

妻:いや、でもね、歩きスマホが増えたというのはね、聴覚が今まで置かれていた状況に視覚は近づいてきていると思う。

夫:コピーできんもの。絵とかパッとその場で再現できない。ハナ歌ってあるでしょ? 口ずさむっていう単語。その場でパッと実行してる印象がある。しかも他人に対してできる。視覚情報でこれは難しい。

妻:確かに特性の違いはあるんだけど、音楽って、ものすごい速さで変化するっていうのは、あんまりないような気がする。どちらかというと、視覚的なもののほうが速く変化しているようには思う。

夫:音楽に近くなったってことは、変化しなくなったってことでいいの?

妻:そうそう、行き詰ってきたっていうかね。

夫:まず、歩きスマホとかって言ってたけど、それが絵とかの発展だと思ってるかもしれないけど、たぶんそれは音楽に肉付けしたものの結果の映像。作品としての絵画とかではない。オブジェでもない。音声の発展形なだけ。次に、絵とかが行き詰ったって話、それは画家としてのあなたが評価している話じゃないかな。音楽や絵が行き詰っているから特性が同じになるとは思えないな。


・まとめ

夫:まとめよう。ほぼ僕がしゃべりまくってるんだけど、絵は商材としてめんどくさい。だから世間を教育して売るほどのメリットがない。なので絵とかに関して教育機会がないし、触れることもない。データの蓄積がされないから、自分でスクラップアンドビルドできないし、他人とブラッシュアップもできない。物珍しさで評価して、売り手が言ってることを基準にするしかない。教育機会さえあれば、該当者から外れるが、それはマイノリティになるということ。これが私のまとめです。

妻:プライオリティは、たとえばみんなが100%いいと言うものは商材として売れる。でも50%の人がいいって言う場合は、その半分の価値しかない。だから経済的に売れることを仕掛けようという人にとっては価値観がみんな同じであるほうがいい。そうして誰かがトクをするために社会はそういう方向にもっていかれる。

夫:アートの話に美的評価だけで話をしようとしても、どうやっても、視野を広げたりすると、考えていくと、カネの話がついてくる。やはり禅宗の話が(笑)。只管打坐するしかあるまいて……


(2023年11月2日)

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