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高倉さん家の雑談(8) 不要不急の芸術・創作を行うこと

高倉さん家の雑談(8) 不要不急の芸術・創作を行うこと


いつも通り、これは劇作家の高倉麻耶とその夫Y.G(わいじー)の他愛もない雑談をメモしたものです。少々勝手な決めつけや独断偏見の類は笑い飛ばしてください。



・金と生まれと気持ち

夫:いつも通りのオチが決まってるんですよ(笑)。まず、「不要不急」にお金が使える、金銭的余裕がある人と、それ以外、または「不要不急」に子どものときから接してる人と、それ以外。もしくは、「不要不急」をやる気持ちに余裕がある人と、それ以外。

妻:金と、生まれと、気持ち。

夫:いつも通りの二極化です(笑)。そしていつも通りに、「それ以外」の層の中で、不要不急をしている人は、いつも通りに嫉妬されている。

妻:私の場合は、子どもの頃から割と絵を習っていたりとか、何かしら文化的に親が恵みをくれていたというか、お金を使ってくれてた。

夫:私は、茶人と、俳人と、庄屋の娘と、地方で食と政をやってたところの娘に囲まれているので、家に絵を飾るのと、抹茶を飲むお茶の時間、まんじゅうを食べる環境があった。花が家の中で何ヶ所にも生けられている。当たり前と思ってました(笑)。

妻:普通の家に水屋はないよね(笑)。

夫:普通の家に清和天皇からの家系図はないよ(笑)。

妻:ハァ…(ため息)

夫:我々自体は、お金は普通か少ない層になる。ただ生まれが「不要不急」まみれ(笑)。40~50年前に、郊外に家建てるとか、マンション買ったとか、っていう家庭の子どもや孫とは感覚が絶対違う。会社でしゃべってても通じないもん、いろいろ。逆に感覚がわかんないのもある。

妻:うちの場合、祖父母の代が裕福だったから、お金を使わせてもらえたっていうのはある。

夫:バブルのときに子どもだったってのもあるしね。「不要不急」つっても我々の場合って「消費」じゃないんだよな。バブルの話をしたんだけど、お金云々じゃない気がした。表現をすることに向かうわけだよね。で、それを子どもの時からやってるから、今もするんだし、お金云々とは違う気がする。

妻:私たちは、今日、美術館に行って、展示を見て、そのあと劇場に行って、舞台公演を観て、っていう休日を過ごしてる。これはもう、「不要不急」なんだけれども、私にとっては、こっちが日常。あなたは、私ほどそれが日常ではないかもしれないけど、表現者側の、創る側の価値観と近い感覚を持ってると思う。

夫:美術館で見ても、好みかどうかから始まって、自分なら何つくるって考えちゃう。舞台美術とかも、自分の創作に使えないかと思っちゃう。

妻:今日なんか夫婦で私の割と理想の休日を過ごした感じなんだけど、私一人のパターンもあって、たとえば図書館に行って本を借りて、美術館とかギャラリーめぐりをして、午後はお気に入りのカフェで紅茶を飲んで、舞台を観たり能狂言とか観たりしているみたいな。あとは習い事とか。そういう生活をしたいって、普通の人はあんまり思わないんだろうね。

夫:私も思わない(笑)。

妻:なんだってー!!

夫:逆もそうでしょ? 朝から陶芸の窯元を3軒4軒ハシゴするとか、新幹線乗って泊まり込みで陶芸するとか、茶杓削るとか、なかなかしないと思うよ。

妻:たしかに。


・コンプリートを目指さない

夫:そういやクリエイティブじゃない趣味あった。修行僧のように炎天下だろうが極寒だろうが8時間ぐらい歩き続けて御朱印もらう…山を登って御朱印もらう…自分でやってて、普通の人の御朱印集めと何か違う気がしてる(笑)。坊さんに褒められたことあるもん。信仰心ゼロなのに生半可な信仰心じゃないっていう言われ方したことある。

妻:それはどちらかというと鉄オタに近い…

夫:乗り鉄?

妻:うん。

夫:確かに似てるかも。ただ、コンプリート目指してないんだよね。作り手感覚があるとコンプリートする方向にいかない気がするんだよ。供給されたものを集める行為なんだよね、コンプリートって。

妻:切手蒐集みたいな?

夫:そういう感じ。舞台や映画で言ったら、特定俳優や脚本家の作品を全部みるみたいな。

妻:そっちは音楽も一緒だね。好きなアーティストの、昔でいう全CDみたいな。

夫:結局、受け手サイドだと、供給側の手が止まった所がコンプリートの完了。消費の終了。趣味って言ってもそこで終わっちゃう。次はない。作り手サイドの人間は自分が生きてる間趣味を続けられる。

妻:趣味で作るのと、作り手として作るのが、違う気がする。

夫:作り手は「商売として作る」でいい?

妻:違うんだけど、それも含むことは含む。

夫:分け方をそこは変えたい。ものを作るときに、表現の発露なのか、発露なら制約はなくていい。でも収入を得る行為である場合は、まず収入が得られる製品じゃなくちゃいけない。その制約の中において発露する。演劇で言ったら、採算をちゃんと考えたやつと、「やりたいんじゃー!」でやったやつ。その差はあるでしょ。作るっていうのは、道楽と商売で分けるべきと思う。商売っていうのは家計を支える、生活を維持する、そういうためのもの。全然作るものが変わると思う。

妻:同じ人の手によって作られたものでも、商売用に作られたものと、芸術目的で作られたものは、違う。売れる絵を描くというのと、誰にも描けない自分だけの作品を作る目的で描いたものと、なんかその差は、道楽と商売ではない。

夫:視点が生活のためか、おのれのためか。「生活のため」は、誰かから対価をもらう。他人のため。他人がよしとするものを作る。道楽は、おのれがよしとするものを作る。

妻:その分け方だと、道楽と芸術の間に差がない。芸術は、自分のためにやるんだけど、芸術家が自分の身を犠牲にして世に尽くすのと同じことになる。


・表現とお金の関係

夫:世のためになるかならないかはどうでもいい。表現の発露がおのれのために、おのれが好きなようにできるか。道楽は自分がやりたいことをやってる。楽しむためにやってる。やりたいからやってる。ものを作ったり表現するには金がかかる。それをわざわざ金をかけてまでやりたくてしょうがないからやってる。それだけのパッションがある。食ってくためにやるには、売れてなんぼ。他人がお金を払いたいと思ってなんぼ。他人がすべて。自分がどれだけくだらない駄作だと思っても売れたら正しい。傑作と思っても売れなかったらダメ。それが商売。自分ひとりがよいと思って許されるのが道楽で、他人がよいと求めてくるのが商売。

妻:じゃあ芸術は道楽でもあるし商売でもあるってことだ。自分がやりたいことをやって、他人が評価してくれる。

夫:作り手の話で考えなきゃいけない。消費することと制作することは別。作り手は物事を消費するわけじゃない。作り手と消費者という概念がまず存在する。作り手はものを作ってく。自分が作る以上、終わりはない。消費は供給されて初めてできる。供給が断たれた時点で終わる。というのがまずあって、作るという行為の中に、自分自身のために好きに作る道楽・趣味であって、それとは別で、作るんだけどお金のためという制約の中でやらなきゃいけない商売がある。ものを作る・作らないという差があって、作るっていう中にも、好き勝手なやつと、商売がある。不要不急って言われたときに、消費しかしない人間からしたら、供給されなきゃ終わるだけのこと。作り手側からしたら、作るっていう行為、発露を止められる。商売やってる人間からしたら食い扶持がなくなる。道楽の人間からしたら自由を奪われる。という状況があって、今のご時世において、作り手と消費者で不要不急の認識が食い違ってるのに同じ土俵にいると思ってしゃべるからおかしい。消費する人間からしたら、ジャムパン食べれないならアンパン食べれば?っていうレベル。作り手からしたら、パンが食べれないないなら我慢すればいいって言われるレベル。その差が通じ合ってない。どうしてかっていうと、金と生まれと余裕。



芸術って括ったらワケわからんくなる。消費者からしたら「しょせん」っていう。消費行動のひとつだから、別の消費に変えりゃいい。飲食業の人が、不要不急はダメだって言ってんだったら、自分も店開くなって言われてるのと同じと思うべき。作り手と消費者が理解し合うことはできないと思う。俳句で言ったら自分の感じたことを言葉にしたいとかは道楽だと思うけど「誰々さんの句集が読みたい」は消費者。芸能人の句集読んで「やれそう」って思ったら作り手にはなれない。

妻:どういうことだろう?

夫:そこに書いてある芸能人の句を、自分でもできると思う。

妻:そういう人多いと思うよ。

夫:それは芸能人のある人が「何かを表現したい」って思ったことの結果なんだよ。同じことができるわけない。別人だから。テレビ番組の内容にも問題あるんだけど、「これが正しい」みたいな表現しちゃうから。消費者は、「正しいのはこれだ」と思って、「正しい」が解れば真似れると思ってしまう。私のいつも通りのバカにしたこきおろしをすると、はやりに乗って作られた新しい形の句会で憧れの主催者様に言われたことが正しくて、主催者様がダメと言った句はダメ、みたいな考えならそりゃ作り手にはなれん。

妻:言いたいことわかった。


・永遠の平行線

夫:結局は、永遠に平行線だと思う。消費者からすると、道楽と商売の違いがわかっとらん。消費者はお金を使うっていう概念だけ。商売はお金の概念がある。消費者との接点はある。道楽は、消費者なんかどうでもいい。なのに、道楽の人に「値段はいくらの品ですか」って平気できいてくる。金額なんて考えてないから知らないよって言うと、お高くとまって、とか、私には教えてくれないんだ、とかになる。金額じゃない世界が理解されない。俳句やるにしても、金になるかどうかをガタガタ言う人はいる。

妻:なんでお金になるって思うんだろうな。

夫:お金になるかと訊く人には、概念として何にしてもお金を支払うだけだから、払う事を基準にする。道楽が存在すると思ってなくて、消費者は金の使う先のひとつでしかない。だから使う先のひとつがなくなってもいい。それで不要不急って言ったりする。お金を払う対象のひとつであり、なくてもいいもの。そのスタンスからみたら、作る側の人っていうのは、ものを作ったら、お金が手に入る人。道楽の概念がないから、道楽で作ってる人も、お金が手に入る人になってしまう。お金を使うという行為でないものが存在しないから、消費には。

妻:消費と経費は違うということね。

夫:経費というのは、作り手が作る際中に使うお金ということだね。なんで「お金になるか」って考えるかというと、「お金になる」以外の概念が存在しないから。「お金を払う」と「お金を手に入れる」以外がない。仮面ライダーのベルトを買い集めてる人と話したことが何回かあるが、「あとからこれを売ったら金になる」って言うんだよ、みんな(笑)。演劇で言ったら、必ず儲けが出ると思われてる。赤字になる、トントンだったら「なんでお金が入らないのにやるの?」って言ってくる。「うっさい」って思うでしょ?

妻:うん。

夫:消費者っていうのは金を使うだけだから、使う先はなんでもいいんだよ。アニメを観てもいなかった人が、無料だからって広告会社の宣伝に踊らされて急に鬼滅の刃観始める。どうせすぐに忘れちゃうのだろう。舞台やってる人間とか、もの作る人間からしたら、自分がやりたい表現方法なんだよ。それをやりたいってスタンスなんだよね。僕が思うには、作り手は人によって道楽と商売の比率は違うと思う。

妻:売りたくない作品があるっていうのは道楽だよね。

夫:そうだね。作り手からしたら、不要不急じゃない。演劇や表現とか作る人が、「芸術は社会にとって不要不急じゃなく大切なことだ」って言ってるんだけど、実際には違うと思うんだ。自分にとっては不要不急じゃないだけ。消費者からしたらどうでもいいことなんだよ。作り手にとってのみ必要、というのが正直なところだと思うよ。僕らは作り手側で、そうなったのは、たぶん生まれが原因でしょうね。「芸術は不要不急」と思ってる人たちと価値観が交わることはないだろうね。

妻:私は中区の栄の市民ギャラリーに、書展や絵画展や写真展を見に行くことが多いんだけど、そこでは知り合いでもないのに趣味でみる人は珍しいらしくて、行くと話しかけられて「誰かのお知り合いですか?」ってきかれて、「趣味でみてるんです」と言うと奇異の目で見られることが多い。


・消費者の概念を分けてみる

夫:今の話を聞いて、消費者の概念を分けなきゃいけないと思った。消費者には一過性のブームで金使うのと、趣味人がいる。作り手の道楽と一緒で、使う金額を気にせず金使ってる人、普通の消費の人は金を出す人と受け取る人って世界で生きてて、誰かが損して誰かが得してるという認識。趣味人はおのれのためにお金を使って、損と思ってない。趣味人たちにとっては演劇は不要不急ではない。消費することが自分の表現に近い人たち。

妻:どうだろうな。たとえば自分のブログとかツイッターとかで感想をめちゃアップする人いるよね。そういう評価者みたいなのはコレクターに近いか…

夫:なるほど。そういう意味でいくと、お金と表現、それが作り手と消費にそれぞれ存在する感じかな。




夫:消費の人間はコスパのことを言うし、趣味の人は満足したかどうか。たとえば演芸場行ったときに、「〇〇円支払って何組何時間だからコスパが良い」って言う人と、「おっ、今日は〇〇か」みたいな人の差かな。ただ、消費者以外が少ないから、消費者の意見がまるで正しいかのようになっちゃう。そのくせ会社員だと退職した途端に陶芸やるとかいう人はどうなのかなあ。私は、「作ったら売るんでしょ」とか「陶芸って定年後の人がやる奴じゃないの」って言われたことある。年金生活者が生活の糧を得るために陶芸すると思ってるんじゃないかな? フリーマーケットに「定年後に陶芸教室行きました」って感じのオッサンが作品とも言えない使い勝手がよくない品に500円くらいつけて売ってるみたいな。

妻:私は見たことないけど。

夫:じゃあ私は憎しみのあまり幻覚を見ているのかもしれない(笑)。売りたくて作ってるんなら売れるもん作れやと。好きなもん作るなら売るなやと。小遣い欲しさに売ってるなら発想が既にダメだと思う。

妻:私は自分の作った茶碗は売りたくないな。

夫:作品を500円で売ってる人は陶芸やめられちゃうと思うんだよね。でも妻ちゃんは演劇やめられないでしょ。

妻:やめられないね。

夫:結局は平行線なんだよね。男の人で、デスクワークの人、大企業につとめてる人とか、消費者じゃないと生きていけない社会なんだと思うんだよね。いまだに、消費者じゃない的な発言を聞いたことがない。消費者が中心の社会だからしょうがないんだけどね。消費者のフリして生きててストレスたまってつぶれる人いっぱいいると思うな。話通じないもん。男性が特につらいと思う。60過ぎて退職した途端に道楽と生活のバランスを知らないまま急に趣味持ってみようってアクセル全力で踏んじゃう人とかね…。

妻:あー。

夫:たぶんだけど、金と生まれと気持ちの話だけど、これを持ってる人は今後減ってくはずなんだよね。まず富の一極集中が起きてる。次に「親と別居して郊外に住む」を是としてる社会では、孫の世代に物品と家の文化も継承されず床面積の低下も発生してて、物が置けないことを隠すための言葉として「断捨離」が生まれたくらい。生まれの差が大きくなってる。お金と生まれのせいで気持ちの余裕も少ない人が増える。その状況下において消費に関しては使える金額少ないし、自分の身近に作るっていう概念が発生しない生活環境が多いわけで、そうすると「芸術は不要不急じゃない」って言ってる人はもっと少なくなる。そんな気はする。今後は多額の金額を使う趣味人と、作り手の人数の少ないコミュニティ。参加者が金持ちだけだったらいいけど、普通のサラリーマンでそのコミュニティに属すると、今以上に叩かれるようになるかも。表現者は一般的な生活を送れなくなるかも。サラリーマンをしながら演劇やる人は、会社の人には隠すようになるかも。

妻:今でもみんな隠してると思う。

夫:今よりたぶん魔女狩りになるよ。たぶんね。


(2022年1月10日)

後記:この話し合いをしたのが1月10日、「着物について」と同時に、あわせて2本やりました。疲れました。今後はゆっくり更新します。

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