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交通社会のマナー2.0

「壁の無い世界」
先日からSNS上でのフラットな関係性をそのように表現しているのですが、どうも伝わりづらいような気がすると考えていました。
もっと身近に、近い世界ってないかな?と。

家の目の前に国道が通っているので思いつきました。

交通社会はどうでしょう。
免許さえあれば、無作為に様々な人と同じルール(道路交通法等の法規)の中で、コミュニケーションを取ることになります。
交通法規はあるものの、明確な倫理規定はない世界です。

道路を運転中にその道が慣れた道であろうと、初めての道であろうと、その道を一緒に走っている運転手や同乗者は、道路という空間に置かれた完全にフラットな状態。
倫理規定の無い世界なので、相手への配慮が必要です。

そんな世界における事故
交通事故といわれているもので、皆さんも色々と想像できると思います。
中には悲しい記憶を持っている人もおられるかもしれません。
交通社会においては、自分のミスだけではなく、相手の突飛な行動による事故が発生します。
免許の更新に行くと、結構エグいビデオとか見せられますよね。(あなたの油断で人生台無し。。。命が奪われます。。。みたいなやつ)

さて、ここまでをSNS上の世界と重ねて想像して頂くと、無免許運転の小学生も入り込んでいるSNSって、めちゃめちゃ怖いって思いませんか?
ともすれば、首都高に無免許の小学生が急に乗り込んでくるわけです。
逆走しても不思議ではないですよね。

話を戻して、、、
もう少し、交通社会におけるトラブルを想像してみたいと思います。
一瞬ですれ違う対向車線の相手を一人一人理解して、「あんな人だなー」「こんな人だなー」なんて考えたことないと思います。
「どんな人とすれ違うんだろう?(ワクワクするポジティブ)」「自分に危害を加える人じゃないかな?(恐怖というネガティブ」もそこまで考えないでしょう。
自分の目的の為(移動手段等)に使っている便利なツールなんです。
しかし、予期せぬところで発生するトラブルは、人的ミスやマナーの欠如による炎上です。
SNSよりもナンバーや免許証というもので圧倒的に個人特定が出来得る構造であるにもかかわらず、トラブル(攻撃)が発生するのはなんでなのか。

ベンツのGクラスは「金持ちの象徴」、古い軽自動車は「イケてない」とされていて、なんだか古風な価値観があるのもその一つの原因な気がします。
つまりは、完全にフラットな法規の中(プラットフォーム)であるはずなのに、そこに人は「自分の方が〇〇だ」というマウントを取ってしまうのだと思います。
これは完全に外圧による自己認知をしてしまっている状態。

このほかにも、「自分の方が運転が上手い」とか、「女性は運転が下手だ」というような偏見にも近い根拠のない考え。

恐らくその人は、フラットな法規の中に居ることを理解しておらず、相手への配慮が足りていない、お互いに向き合うことの価値を理解していないのかもしれません。

では、マナー2.0で記述させて頂いたようなマナーを交通社会に置き換えた「交通社会でのマナー2.0」って何だろう。
それを実現するとどうなのか?を考えてみます。

歴史をたどると、元々自動車はお金がかかりますし、資産のある人しか所有出来なかったという事実があると思います。
また、現在におけるブランディングも変わらず。
例えばレクサスなんてブランドはトヨタのハイエンドとして成り立っています。

実はこの二つってそんなに大きな違いはないはずなんです。
わかりやすい比較だと、トヨタのハリアーとレクサスのRXは同じだし、アリストはGS、アルテッツァはIS、ソアラはSCです。
厳密には製造におけるプラットフォームやホイールベースの違いはあるものの、ほとんど同じ。

それでも高級車と呼ばれるレクサスブランドが成り立つのは、フラットな交通社会においても「高級車」というものが、その価値(マウント?)があるとされているからだと思います。

ブランド以外での明確な差があるのも事実で、
確かに自動車には速さや快適性、機能性などの大きな違いがあります。
わかりやすいところ、VOLVOとそこらの国産軽自動車が正面衝突したら、国産軽自動車は元も子もない。
BMWのM3シリーズがハイウェイで200km/hで巡行できるが、トヨタのカローラでは到底敵わない。

でも、これはフラットな交通社会においては、その世界の中での個人の趣味嗜好でしかなくて、それが「偉い」というわけでも、「優れている」というわけでもないはず。
交通社会においては、プラットフォーム(法規)はフラットであるにもかかわらず、その歴史や認知バイアスによって、上下というものが出来てしまっているのかもしれません。

「交通社会のマナー2.0」は、簡単に言うと、認知バイアスを理解し、フラットな法規の中で相手に配慮することです。
法規の中では生身の人と人がコミュニケーションを取ることを前提しなければなりません。
交通社会のマナー2.0で大切なのは「自己認知」そのものかもしれません。

人は歴史という変わらない事実と、それにより積み上げられた大きな社会に根付いたバイアスによって本来向き合うべきものに目を背けている気もします。
それは、「人と向き合うことが大変」だから。

毎日運転する人は、毎日不特定多数の人と向き合うなんて大変ですよね。
なので、車や社会に根付いたバイアスを積み込んで走るのだと思います。(品川ナンバーの高級スポーツカーで銀座走れたら楽しいですもんね)

交通社会は「可視化出来ている認知バイアス」が多いにもかかわらず、その当の本人は周りを見ていなかったり、気付いていない。
さらに見えないもの(心の壁)があるにもかかわらず、そこにもリスクが潜んでいることを意識しきれていないからトラブルが発生する。

自動運転が完全実装されたときには、交通が手段ではなく、人の倫理観を重視したコミュニケーションプラットフォームの一つに変わるかもしれません。
交通社会がSNS同様の一つのプラットフォームになり、「壁のない世界」と「距離」(現実)が交錯する、新たな世界観が生まれるのでしょうか。
虚像のみではない、壁の無い世界には五感を刺激する「新たな世界」があると思います。
私は交通社会が進化し、新たな世界を迎えることに強く期待しています。(ワクワク♪)

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