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「仕組み」に宿る

(問い)社会で働くということは、外圧から逃れることは出来ないものでしょうか。

自信のインサイトを深堀し、その内なるものからあふれる衝動が「はたらく」につながったとしても、そのフィールドは現代の社会であり、その己の無力さを痛感することがあります。

そして外圧に脅され、「はたらく」が自立的なものではなく、労働という重いものに変わってしまうのです。
ライフホイールの中で、最も整えることが難しのが「お金」という人もいます。
それは、社会の仕組みの中で手に入れなければならない以上、それが難しいと感じる人もいるのです。
一方で、その仕組みを手に入れた人はそれ以外のことに難しさを感じるようです。

全てのバランスを整えられた人ってどれくらいるものなのでしょうか。

よく耳にする言葉でいうと、「好き」=「はたらく」=「お金」 という感じに、この3項目が成立していれば良いように想像してしまいます。
しかし、バランスを整えるために「=」である必要はあるのでしょうか。
むしろ別物としてそれぞれを成立する方がわかりやすいものかと思います。

なので、上記の方程式を違う解釈すると。

「好き」=「はたらく」✕「社会との関わり」

「お金」=「はたらく」✕「仕組み」

という風に展開します。

つまり、「社会との関わり」と「仕組み」が 「=」 ではないと解釈できます。

私の考える「社会との関わり」は、とてもあたたかいものです。
「仕組み」は少し機械的で冷たさを感じるかもしれません。

「社会との関わりは」あたたかさの反面、もろく、弱く、可愛らしものです。
「仕組み」は強固で理論的、圧倒的な安定感があります。

この様に展開すると、「社会との関わり」と「仕組み」には反するほどの距離を感じてしまいます。

つまりは、「好き」から「お金」を手に入れることは難しいという理論も成り立つわけです。

しかし、ここにある気弱性(希望)としては、その「仕組み」が人によって作られたものであり、多くの賢人によるナレッジの集積物であることです。

「仕組み」を(問い)にある「外圧」と置き換えると、その外圧も人間により作られたナレッジの集積物。

多くのナレッジは社会の不を解決する為に、過去の賢人が夢中になって取り組んだ功績であり、それにより多くの人が笑顔になり「あたたかさ」を感じたでしょう。

今日、私がお伝えしたいのは、
この無機質で冷たさを感じた「仕組み」にも、心が宿っていること。
「仕組み」を手に入れる、真似するだけではなく、その宿った心を探り、自身の糧とすることで、社会で「はたらく」ということが、より一層、人の為となり、ゆくは自身への最大の報酬となって返ってくる。

どんな環境になろうとも、この気づきを忘れずに、「社会との関わり」と「仕組み」を紡ぐ人でありたいと思います。

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