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私の身体も魂も全部、私だけのものなんてことは、もうわかりきっている【映画『哀れなるものたち』】

ヨルゴス・ランティモス監督最新作の『哀れなるものたち』。

本作を鑑賞してしばらく、ガラガラの国道をぼんやりと車で走りながら、シャボン玉のように浮かんできた感想が、本記事のタイトルのそれだった。

正直に言うとランティモス監督の作品を、私は一切見たことがなかった。

『女王陛下のお気に入り』も『聖なる鹿殺し』も作品の名前だけは知っていたが、鑑賞したことはなかった。

苦手意識を持っていたとかそういうわけでは全くなく、単純に映画館にて鑑賞する機会を逃してしまっていただけで。
「興味はあるけれど、やる気を出して鑑賞するほどでもない」という微妙な立ち位置を維持したまま、ランティモス監督の作品は配信サイトを眺める私の前を時折通り過ぎては、いつの間にか消えていた。

そんなランティモス監督の作品が、我が家からほど近い映画館で上映する。
しかもエマ・ストーン主演。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞受賞。
なんだか宣伝も、それまでの作品より気合いが入っている気がする。

ほほう…と思った。
公開日をチェックし、公開日からすぐの週末の予定を確認した。
何も予定のない休日。行くっきゃない。
なんだかんだ言って私はミーハーな人間だった。

天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。
時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。

公式サイトのあらすじを見て思う。

冒険奇譚だろうか。
ポスターを見る限り、どこかグロテスクさも感じる。
とりあえず予告動画も見てみる。
どうもSFのようでもあり、絵本のような感じもあり、奇妙な感じ。
そんな印象を持ちながら映画館の席についた。

仰々しい紙芝居を永遠に見せられているような感覚

『背景美術や衣装が素晴らしい』
『セットが圧倒的』
『この世界にずっと浸っていたいとすら思わされた』
といった感想がネットを巡ると多々出てきたが、どうしても私は寓話っぽさが目につき、最初から最後まで物語に入り込むことができなかった。

もはや美しいと感じることもできないまま、ただひたすらに仰々しい・気を衒っているとしか思えず、鑑賞していて非常に辛かった。
(ランティモス監督の他作品をまだ鑑賞していないのでなんとも言えないが、この仰々しさは監督の特色なのだろうか?)

物語の舞台とされる19世紀後半のリスボンやアレクサンドリアがあのような状態でないことはわかった上で鑑賞していたのだが、なぜここまで寓話的な世界観にするのか、そこに何の意味が、効果が、狙いがあるのか?
結局、その疑問を終幕まで自分の中で消化できなかったのだ。

主人公のベラという存在の設定を浮かせないためにも、あえて寓話的な世界観が必要だったのか?
それとも、新たな世界を構築することで私たちを幻想的な世界へと誘いたかったのか?

色々と哲学的な場面や問答が繰り広げられているからこそ、それについて考えたりしたいのに、それすらも結局寓話でしかなく、意味がない、考えている時間すらくだらない時間のように思えてしまい、思考が止まった。

また、カメラにおいても、あえてのズームインやワイドなレンズ?魚眼レンズ?(あまり撮影が詳しくなく申し訳ないですが)、ぼかしの入った撮影等、色々と工夫があったように思えたが、それすらも物語に入り込む上でノイズのように感じた。

(モノクロから色彩豊かな世界への移り変わりも、ベラ自身の世界の捉え方が変化していることを伝えたかったのだと思うのだが、正直この手の演出が最近多すぎやしないかと思う。世界の捉え方の変化って色彩だけじゃないだろと思うのだが…モノクロで演出することで本来美しくあるべきものを見えなくしているような気すら感じる。)


結局最後の最後まで私はあの世界の住人にはなれなかったし、なりたいとも思えなかった。
街も、海も、空も、現実は本作のものよりも澱んでいるかもしれないが、よっぽど魅力的であり、深く、重く、それでも美しいものであるように思えた。

工夫した撮影方法なんて取らなくても、観客側が勝手に解釈して受け入れることができるものがあったはずなのに、それをほとんど感じ取ることができなかった。

それが悲しかった。

セックスの重要性、老い、いつか迎える死。

本作において主題とされているのは、タイトルに記載した通り、
「私の身体も魂も、性的快楽も、自分のためのものであり、男性がいなくても成り立つものなのだ」ということだと考える。

性的なやり取りを恋人や愛人同士で楽しむためだけでなく、金を稼ぐ道具として機能させるために、自らの身体を娼館で売ることで、性的にも経済的にも自立するベラ。
それを為すベラを穢らわしいと侮蔑する男性達。
ベラは私の身体のことは私が決めると断言する。

本作は舞台が19世紀後半という設定だと考えると、ベラの主張は革新的とも言える。

でもそんなことって、もう現代においては当たり前じゃないのか?

だって、自らの身体に値打ちを与えて、稼いでいる女性なんていくらでもいる。
対して、そういう女性を自分達よりも下位の存在だと決めつけ嘲笑う男性達もいる。

だけど、そんなの知ったことかよ、と彼女達は思っているのではないか。
身体のおかげだけではないのは明白だろう。
彼女達は自らの魂の強かさで、望むべき生活を手に入れているのだ。

劇中、ベラの女性としての機能を男性が使い物にならなくしようとする場面がある。
女性が性的快楽を得るための機会を奪うという意味で言えば、非常に身勝手な仕打ちだし、それに対して抵抗し、自らの性的快楽を守ろうとするベラの行動には共感できたが、個人的にはそこまで悲劇的なものなのか?と思ってしまった。


だって、性的な快感を得られようと、得られまいと。
子供を産めようと、産めないと。
それでも、その身体は私のものでしかなくて。
その身体で生きていくしかないことを、おそらく現代の多くの女性はわかっているはずなのだ。

だからこそ、女性としての自由と自立を描く上で、セックスや女性としての機能の話をメインに据えている本作にはどうしても物足りなさを感じてしまったのだと思う。
ストーリーの分かりやすさを重視した故にメインに持ってきたのかもしれないが…。

女性であるからかもしれないが、私にとって重要なのは、自分の女性としての身体や機能をどう使うかということよりも、ゆっくりと死に向かっていく中で、自らの思うように機能しなくなり、老いによって変わっていく自分の身体と魂をどう受け入れるか。
そちらの問いの方がずっと重要なものに思えたのだ。
(しいて言えば、船で出会った老婆のマーサーが老いを経験した後の女性としての生き方を体現していたのだろうが、結局性的快感が〜という話になったり、世界を知るべきだとかイマイチ深掘りされていなかった印象)

本作でメインで描かれていたような、性的な快感を得る、子供を産む、育てるといったこと。
それもいつかは叶わなくなる。

自らの身体に値打ちを与え、性的・経済的自立を図ることができている女性達も、いつかはその自立を守ることができなくなるのではないか。
自らを嘲笑った男性達を頼らざるを得なくなるのでないか。

誰かに許しをもらわなくてもいい

本作を鑑賞した後に思い出したのが『バービー』である。
バービーも女性の自由や自立をテーマの一つとして描いていた。
そして、描かれているのは同じテーマのはずなのに、私はどういうわけか『バービー』の方がストンと心の中に落ち、受け入れられたのだ。
それはなぜか。

バービーで印象的だった場面をいくつか思い出してみる。

バービーが初めて人間界を訪れた時に露出の多い格好を男性にネタにされる場面。
自分の好きな格好をしていいとわかっているはずなのに、誰かの視線を気にしてしまうのはなぜだろう。

持ち主の記憶を辿る中で、涙を流し「胸は痛むけど素敵」とバービーが呟く場面。
家庭や恋人と共に、育っていく樹々を眺めながら「変わっていくこと」を知る。

持ち主のサーシャに出会い「あなたは何?ただのバービーでしかないでしょ」と言われ、自らの在り方に戸惑う場面。ただのバービーで完璧だと思っていたはずなのに。

ラストのバービー創業者であるルースと向かい合う場面。
全てが完璧のまま「何も変わらない」「死すら訪れない」バービーランドから出て、
「毎日が変化の連続」で「いつかは死を迎える」人間になりたいと願うバービー。
それに対してルースは「許可は必要ない」と言う。
何が待ち受けるか知った上で、望んだ通りに生きるべきだと。

知的に成長することが出来ようと、出来まいと。
美しいと称される外見を持っていようと、持っていまいと。
誰かに必要とされるような自分になれようと、なれまいと。

私は私のままで生きていくことしかできないし、
私以外の何者にならなくてもいい。

変わっていくことに対しての不安を完全に取り除くことはできない。
出来ないことがどんどん増えていき、いつか何も出来ない存在となり、私たちは終わりを迎える。


ベラのように、知的に成長したり、現実を知り世界を変えようとていくことだけが、人間になることなのだろうか。
変わっていくことを知りながらも、私が私のままで生きていくことを受け入れることが、人間になることなのではないか。

「結局皆変わることなんてできない」
ベラ含め皆「哀れなるもの」であるというラストを選んだ『哀れなるものたち』。
これが現実なのだという皮肉を体現しているように見えた。
嘲笑っているかのようにも見えた。

もしそれが現実だとしても。
笑って終わらせるぐらいにどうしようもないものだったとしても。

人間になり、恐らく性器を得たであろうバービーが婦人科を受診するような、そういう笑いのある結末を私は望んでいる。

現実がそうではないことを知りながらも、諦めの先にある何かを求めざるを得ない。

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