再会したあの人【エッセイ】
今年、中学生になった次女がソフトテニス部に入った。あろうことか、ソフトテニス部。
幼少期は新体操、小学生からはダンスを習ってきた次女は、「日焼けしたくないから外のスポーツはやらない」と言っていた。
それなのに、短パン、靴下の跡がくっきり残るほど真っ黒に焼ける、ソフトテニス部を選んだ。
私は内心、とても複雑だった。娘がソフトテニスをやる日が来るとは思っていなかったし、心の準備もできていなかった。娘の部活ライフを穏やかに見守りたい……そう思っていたのに!
私が次女の、たかが部活に、こんなに心が掻き乱されているのは、私自身が小学校から高校までソフトテニス部に所属していたからである。
しかも小・中学校では全国大会に出たくらいなので、わりと真剣に打ち込んでいたのだ。それゆえに、娘がその世界に入るとなると、口うるさく指導してしまわないか、自分への不安が先行して、なんだか落ち着かなかった。
ラケット選びに付き添った時、
「ママ、私知ってます感出して鼻の穴広がっていたよ」
と次女に指摘された。
隠しても隠しきれない、ドヤ顔が恥ずかしすぎた。スポーツショップでこれだから、この先も不安しかない。
次女は毎日休むことなく練習に参加して、休日も朝早く出かけた。部活がない日は友達と自主練するほど真面目に取り組み、いつの間にか私も早起きの習慣がついた。
焼けたくないと言っていた次女の顔は、海に行ったくらいにこんがりと焼け、素足でも靴下を履いているように見えるほど、くっきりと靴下焼けもしていた。
見た目はすっかりスポーツ少女となった1年生たちが、いよいよ大会デビューする日が来た。
試合を見たら、きっと口うるさくアドバイスしてしまう。我が子だけでなく、他の部員たちにも余計なことを口走りかねない。
応援に行くのはやめようか……しかし、保護者たちのサポートなしには成り立たないのだ。
学年が上がれば役割もつくだろうし、今のうちから挨拶しておきたい。
ヒートアップしないことを固く心に誓い、会場へと向かった。初めての大会は、私も何度も訪れた、思い出のS中学校だった。
その日は新人戦だったので、一年生だけが出場し、ほとんどが初心者。思うようにボールが打てず、ラリーが続かない試合も多かった。
うん、わかるよ。彼女たちの必死な姿を見て、私も初めての大会を思い出した。
サーブなんてほとんど入らない、試合のルールも曖昧で、今勝っているのか負けているのかも、正直よくわかっていなかった。
何組かの試合を観戦して、いよいよ次女の試合がはじまった。やっぱりサーブが入らない。風向きを計算して、ボールをコントロールするなんて、まだまだできやしない。
でも必死だった。失敗すると、本当に悔しそうな顔をしていた。
徐々に調子が出てきて、まぐれかもしれないけれどいいコースに決まった。
同じ学校の部員や保護者が、大きな声で応援している。私は控えめに「ナイスボール!」と発するのが精一杯だった。
「コートチェンジだ!急げ!」
隣のコートの向かい側から、緊張感のある声が響いた。
腕組みをしてじっと生徒を見つめる、他の学校の顧問であろう男性の姿。声を荒げる先生がほとんどいない会場で、その先生の声が場内をピリリとさせた。
私は一瞬で、あの頃にタイムスリップした。目を閉じると、腕組みをしてじっとこちらを見つめる、あの人の姿が見えるようだった。
いまだに何度も夢に出てくるあの人は、私が所属していたソフトテニスのジュニアクラブを創設し、東京都小学生ソフトテニス連盟の理事もつとめた人。
名前を「浜竹寿太郎(はまたけじゅたろう)」という。
私が出会った時はすでに白髪頭で、少し背中が曲がった60代、小学生から見たら“おじいちゃん”だった。でも、誰よりも動いて、誰よりも声を出して、見た目の何倍も元気な人だった。
毎週土日、たくさんの子どもたちとテニスコートで汗を流した。初心者の練習は、一に素振り、二に素振り、三四は玉つきで、五に素振り。
新しい部員が多い春は、高学年のハイレベルな練習の横で、初心者の基礎にとことん付き合う。一振りごとに声を出し、イメージしながらラケットを振る。それはそれは丁寧に、基礎を教えてもらった。
どんな当たり方をすると、どんな風にボールが回転するか、理屈と結びつけて教えてくれた。
高学年になると、お弁当を食べて日が暮れるまで練習した。冬は日が暮れてもまだ練習したいと、市営体育館を借りて練習する日もあった。
今ではとてもできやしない、若い頃の体力はすごいなんて思うけど、自分の老いを感じている私はまだアラフォーで、当時の浜竹先生より20以上も若いのに。
浜竹先生は、朝から晩まで練習に付き合って、いつも正確に玉出しをして、いつも座ることなく動いていた。
彼の指導方法の中に、日誌制度があった。練習後に、感想やうまくいったこと、悔しかったことなどを自由に振り返ってノートに書く。それを浜竹先生に提出して、次の練習の時には、赤ペンで彼の感想や考えが書かれて帰ってくる。
何十人もいる子どもたちと、交換日記のように、ノートのやりとりをしていたのだ。時々、小学生には理解できない難しい言葉も書いてあったが、くだらない感想や絵日記のようなページにも、ちゃんと返事を書いてくれた。
いつも厳しいおじいちゃんからは、想像できない細やかでやさしい一面だった。
彼の熱血指導のもとで上達した子どもたちは、メキメキ結果を残し、全盛期には何年も連続で全国大会に出場するほど、東京都では名門のクラブだった。
私も6年生の時、全国大会の切符を手にすることができた。強豪に圧倒されて、上位入賞はできなかったけれど、島根でチームメイトと見た、こぼれ落ちそうな星空と流れ星に興奮した夜のことは、きっと一生忘れない。
クラブを卒業して中学の部活に入ってからも、浜竹先生が教えてくれた基礎のおかげで、一年生から大会で活躍できた。
時々、ジュニアチームと練習をしたり、平日の部活に来てくれたりと縁が続いていたけれど、高校に入ってからはめっきり会うこともなくなって、最後に会ったのがいつなのかも憶えていない。
でも時々、あの頃にもどって練習している夢を見る。大きな声で怒鳴られて、必死にボールを追いかける。次は狙った通りに決まって、ガッツポーズをする。そんな光景がなつかしくて、目覚めると胸がいっぱいで「楽しかったなぁ」とつぶやくと涙が出ていた。
何度も夢に見ていたけれど、再会を果たさぬまま、10年前の冬に浜竹先生は亡くなった。
通夜が行われた葬儀場は、敷地いっぱいに参列者が並び、「小さな田舎のまちでこんなに人が集まったことはない」と葬儀場の人も驚いていた。
もちろん、参列者のほとんどは元教え子たちだった。
通夜で久しぶりに再会した仲間と、その年の夏に思い出のコートを借りてテニスをした。もちろん体は動かないし、すぐに息が切れた。
そのあと、先生の墓参りに行った。ものすごく日差しの強い、暑い日だった。お墓に水をかけても、一瞬で乾いてしまうほど。
先生は当時、水を飲みすぎると動けなくなるって、はちみつが入ったぬるま湯を少しずつ飲んでいたっけ。
水をかけすぎたら怒られると思ったけど、あまりに暑かったので、何度も何度も水をかけた。
あの日みたいに溶けそうな暑さの中、次女が必死にボールを追う。
今私にできることは、アドバイスなんかじゃない。アドバイスなんてできるはずがなかった。この場だけを見て、経験からものを言うなんて、とてもできないと思った。
言葉だけではあまりに不十分だから。
あれだけの時間を注いでもらって、叩き込まれた基礎と習慣。誰よりも直向きに、練習を大切にする背中。人を育てるというのは時間と根気、自分の生き方そのものなのだ。
次女がソフトテニスをはじめたおかげで、浜竹先生に再会できた。彼から教わった本質を、思い返してゆっくり消化していきたい。
明日も早起きをして、次女の好きなゆかりのおにぎりをにぎろう。
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