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宮沢賢治「オツベルと象」を→短歌に翻訳して→短歌だけ読んで小説に逆翻訳したらこうなる◎小説→短歌→小説をつくるバックトランスレーション 「ハヤブサ」

ハヤブサの遊び方


① ものずきがふたりあつまる
② 好きな小説をえらび小説→短歌に翻訳
③「元の小説がなにか」を知らせずに交換する
④ お互いの短歌だけをよんで短歌→小説に逆翻訳(バックトランスレーション)
⑤ ④の完成小説と②でえらんだ小説タイトル(翻訳元ネタ)を発表し合う。
⑥ 相違点をたのしむ

さっそくハヤブサで遊んでみる

① あつまったものずき: みやり と 立夏

② 宮沢賢治「オツベルと象」を→短歌に翻訳(小説選・短歌作:立夏)※「オツベルと象」未読の方は先に目を通していただいてから続きを読んでいただくことをお勧めします。(→青空文庫:宮沢賢治「オツベルと象」)
※ 読んでなくても、大丈夫です。

宮沢賢治「オツベルと象」を立夏が短歌にしたもの

月の下黒牙乞いし白き歯よけいざい討つはサンタマリアや
つきのした くろきばこいし しろきはよ けいざいうつは さんたまりあや

③「元の小説がなにか」を知らせずに交換する

④ お互いの短歌だけをよんで短歌→小説に逆翻訳(バックトランスレーション)
(作:みやり)

ここで、ハヤブサ追加ルールの発表!

今回のハヤブサには以下の追加ルールを設定してみました。

1. 翻訳短歌を書くとき、原作小説タイトルの名詞を使わないこと
2. 翻訳短歌を書くときに使用する名詞は、原作小説内の名詞だけを使うこと
3. 逆翻訳小説を書くときに使用する名詞は、翻訳短歌内の名詞を使わないこと

これを先ほどの短歌にあてはめると……

月の下黒牙乞いし白き歯よけいざい討つはサンタマリアや


1. 翻訳短歌を書くとき、原作小説タイトルの名詞を使わないこと
→ オツベル、象は使っていないのでOK

2. 翻訳短歌を書くときに使用する名詞は、原作小説内の名詞だけを使うこと
月、下、黒、牙、白、歯、けいざいサンタマリアはすべて原作にあるのでOK

3. 逆翻訳小説を書くときに使用する名詞は、翻訳短歌内の名詞を使わないこと
→ 逆翻訳小説では月、下、黒、牙、白、歯、けいざい、サンタマリアは使用禁止
※また、逆翻訳小説作者は小説作成時点で原作が「オツベルと象」であることは知らない状態です。

短歌をもらった時点のみやりの分析

みやり:
けいざいをどう読むか。
ただ文脈的には刑罪。討つとサンタマリアから。
恐らくどこかのシーンに月夜がある。
サンタマリアが何かを討つ…しかし黒いものが白いものを乞うのは、当たり前とかそんな感じなのに討たれるという理不尽さ=経典のようなある種別の道理を持ったルールの匂いがする。

それでは実際の逆翻訳を見てみましょう。

ハヤブサで逆翻訳された宮沢賢治「オツベルと象」


 刀を研いでいると、自分の骨を研いでいるような、そんな気分になってくる。重く鈍い暴力がこの身体に馴染んでいくような感覚を覚える。
 小屋の外からはゴウゴウと強い風の音。まだわたしが小さかった頃の母さんの言葉を思い出す。
「いい。ステラ。風の強い日の夜は、決して外に出てはダメよ。あなたみたいな可愛い娘はとくに」
「うん。わかった。でも、どうして」
「それはね、この森には狼が出るの。こわいこわい狼が。ヒトを食べる狼が」
 脅すような文句とは裏腹な優しい表情で母さんはわたしの髪を撫でる。
「でも大丈夫、お母さんが守ってあげるから。だから安心して、もう寝なさい」
 母の不思議な手の温かさを覚えている。あれはまるで……。いや、わたしの母はまさに、聖母だった。少なくとも、ヒトとオオカミにとっては。
 風の音は更に大きくなる。わたしも母さんと同じように、きちんと聖母をやれているだろうか。狼から、ヒトとオオカミを守る聖母を。
 カタッ。火にかけたままだった鹿のシチュー鍋が音を立てた。研ぎを中断し、火を止める。そのまま台所窓の結露を右手で払う。外に目をやると、踊り狂う木々の間に大きな丸い銀の鏡。

*

 おれの背にある大きな丸い銀色が忌々しい、こちらをずっと睨みつけ、追い立てているようだ。腹の底にある不愉快さを背景になすりつけ、狼は聖母の待つ小屋に向けひた歩く。手には爺さんから渡された紙片。湿っている。爺さんの言葉を思い出す。三、四時間程前なのに随分昔のように感じる。
 「狼よ、わたしの可愛い息子よ。お前はもうオオカミじゃない。狼だ。同じだと、お前は嘆くかも知れない。そうだ、同じだ。わたしにとっては、お前は愛しい息子だ。わたしの宝だ。ただ、そうじゃない。そうじゃないヒトがいるから、そうじゃなくなってしまう。お前のその、闇のような毛色を、きらうヒトがいるから。息子よ、息子よ。あたらしい名を一つ。サザナミ。お前はサザナミだ。どうかこのわたしのところまで……さぁ、もういきなさい。聖母様のところへ」
 そう言って手渡された紙片。中に書かれているのは涙でかすれている記号たち。
 『集落を出た後ヒト里丁字路を右へ。突き当りにある石山から丸と四角の石を一つずつとる。石は決して捨てないこと。その後は丁字路へ戻り正面を真っ直ぐすすむ……』
 合っているよな。まっすぐ、まっすぐ……。もうかなり歩いたような気がする。ああ、なんだか、腹も減った。
 森の匂いがご馳走のように感じ始めた頃、遠くにあかりの灯った小さな小屋が見えた。あそこに、聖母様がいるのだろうか。
 

*

 きた。母さん。力を貸して。急いで玄関扉の前に立つ。研ぎ終わった山刀を左手に持ち切っ先を床に向け体の中心を守るように構える。右手には切り詰めた散弾銃。銀の弾などない。
 ザッザッザッ。足音が扉の前。ごん、ごんと扉を叩く音。わたしは息を思い切り吸い込み、ぐっとお腹に力を込めると、一言告げる。
「石」
「え?聖母様?聖母様だよな?」
「次が最後、石」
 わたしは引金にゆっくりと確かに力をこめていく。
「ああ、あるよ。丸いのと、四角いの」
「……はぁ。来ちゃったか」
「……どういうこと?」
 扉越しの問答は続く。
「念の為聞くけど、迷っているわけじゃないよね。そっち側からヒトはこれないし」
「ああ、治してもらいにきたんだ、おれのヒト食いを」
「そっかぁ……」
母さんには、石がある時のことは教わってない。
「聖母様、おれのヒト喰いを、どうか」
「……いやぁ、わたしって、錯乱状態みたいのしか殺したことないんだよね」
「殺すって。おれは。聖母様。おれはよ、あんたならおれのこの身体を治せるって爺さんが」
「いや、そんなの。無理でしょ。絶対ヒトを食べるよ。狼ってそういうものだよ」
 狼に殺された母さんは、そう言っていたよ。
「そうか、じゃあおれがヒトを食べないことを聖母様に認めてもらえればいいのだ」
「いいのだ、じゃないでしょう。せめていいのだな?にしなよ」
風はいつ止んだのだろう。狼の通る声がよく聞こえる。
「そりゃあおれだって、多少そういう丁寧さをもって、まともになりたいよ。まだ爺さんに返せていないものがたくさんだ」
「へぇ」
「なに?」
「狼にも、思いやりってあるんだね」
「今までの狼とはちがう?」
「どうだったかな。あったかも知れない。でも血を流したら、すぐに狼だよ」
「おれは、ヒト喰いを治して、爺さんのところに戻る。それだけだ。血を流したって、違えない」
「……ねぇ、狼。好きなシチューは」
「シチュー。シチューってなんだ」
「じゃあ、好きな肉は」
「鹿」
「気が合うね。じゃあ悪いけど、そろそろ」
「うん、いいよ、やれよ。おれはがんじょうだからさ。だいじょうぶだよ。きっと、聖母様も認めてくれるさ」
「そう。死ななかったら、生きていてね。」
「ああ、おれはサザナミ」
「……わたしはステラ」
 乾いた音が二つ、山に木霊した。

ハヤブサ感想戦(⑥ 相違点をたのしむ)


まずはみやりの感想

 第二回ハヤブサご覧いただきありがとうございました。前回同様、今回も原作小説がなんなのか全くわからないまま書きました。洋食かと思いながら食べていたら純和風でしたね。出汁の味が凄い。象印。

 さて、この後は前回同様感想戦です。ですが、その前に立夏さんの書かれた小説について述べさせていただこうかと思います。

 現実、非現実問わず物語はたくさんの構成要素を持って成り立つと思います。今回、立夏さんが書かれた小説もそのようでした。主人公や、村に現れるもの、またその歴史……そういった要素が積み重なっていると感じました。しかし、その構築は孤独なものです。31文字の短歌にある情報だけで、たった一人で物語を書き出す作業です。孤独な老人のたたかいを、孤独な作家が書き切った。でも、実際わたしの知る限り本当の物語はそのようなもの。いや、ほとんどが書かれることのないような物語ばかりなのかも知れません。31文字以上の物語でさえも。でも、それでも何かを感じたり、残したりしたくなってしまうから、思い切り、したりしなかったりするんでしょうね。今回のバトンは、まさにその、ほと走る何かが老人から綺麗に立夏さんの筆に渡ったように感じます。最後に結局渡った先も老人なのが、ちょっといいですね。鉄臭くて。それでは感想戦をどうぞ。


みやりと立夏の感想戦


二回目のハヤブサを終えて

みやり「二回目だと楽しむ余裕が出てきますね。ハヤブサ。」
立夏「自分や相手のハヤブサに向き合う癖もある程度見えていて、同じことをしようとしても全然違う感じがします! 楽しい!」
みやり「なんかこう、名詞の凄さを感じる。名詞パワー。なんだろうな、短歌ってすごい柔軟なフォーマットですね。ちょっと踏み込んだ感想をすると、今回の名詞縛りはあんま好みの短歌書けないかと思ってたんですが、わりかし楽しんで書く事ができました。なぜかというと(今回やったかはどうかは別として)この名詞縛りは余白を存分に使うことが出来るなあと気付いたからですね。短歌の余白ってどこに入れても良いのだなと、頭に入れてもいいし、文末に入れても良い。上手く使えば途中でも。前回感じた時間の長さは難しいねという会話の続きにもなるのですが、あえて書かない情報の美しさみたいな。」
立夏「余白使わないと、絶対文字数足りないな! って気づきはありました。余白を作ることって、読者を信じる・ということにもつながると自分は思うです。」
みやり「なんかこう、漫画とかでも……三年後。とかいきなりテロップ出て、えっ何があったの?みたいな想像する良さ。」
立夏「……三年後、……って、打ち切り漫画作法でよくあるやつね。漫画ではコマワリだし、映画では風景のインサートを入れたりするような効果が出せるものが確実に文章にもあるわね~。小説だと簡単なところだと改行を入れればいいんだけど、短歌で改行は、しちゃいけないってことはないんだろうけど、まあ邪道ではある。短歌については以前、ながく短歌を作っている方に言われたことがあって、『短歌は作るより読むほうが難しい』らしい。」
みやり「不思議なもので、三十一文字なのに広すぎると感じました。名詞縛りというルールでしたが、その裏には読者を信じる的なテーマも潜んでいるのかも知れません。その信じ方が、書き方に出る。」

謎の料理感

みやり「今回の新ルールによるハヤブサって、料理に近いなと思ったんですよ。」
立夏「というと?」
みやり「にんじんとたまねぎとじゃがいもと肉あったら、肉じゃがとカレーつくれるじゃないですか。さぁどっちだという。」
立夏「料理のたとえとても共感しました。私はこれを書いている今まさにそういう葛藤に苦しんでいることに気づいた。縛りルール付加された今回ハヤブサの苦しさを言語化すると、料理になるんだなって。」
みやり「自分ちのカレーが人の家と違ったらどうしようみたいな笑。」
立夏「それは大変だ。」
みやり「えっ?味噌汁にトマト入ってんのおまえんち?」
立夏「ね笑。しかもこのレシピを書いた人間は、レシピに書いた材料を料理人が使えなくなることを知ってて作ってるじゃない。」
みやり「そうそう。そうなんですよ。米がもう使えないからナン作るかみたいな。」
立夏「だからカレーライスを作るという指示を確実に伝えることを優先してカレールーをレシピに入れるか、それとも、料理人にカレーを作らせることを優先してカレールーをレシピに入れないか、レシピを書いた人間がどちらを優先したのかを料理人は見極めないといけないんですよ」


翻訳短歌の過失箇所


立夏「それも踏まえて今回の『オツベルと象』の翻訳短歌をどう書いたかというと、こんな感じ。」

真っ赤な竜の目をした疲れ切った白い象が、鶯のような声で月に許しを乞うた。灰色の仲間が呼応し、真黒な二十馬力の牙となって犬とけいざいを押しつぶした

↓ちょっと減らす。あと、オツベルは神の力でやられたんだよね~と思い直して

真っ赤な竜の目をした白い(象の)灰色の仲間が牛や鶯や馬や犬を気絶させ、けいざいの主人を押しつぶした。サンタマリアよ、けいざいを討て

↓動物をたくさん出すことで動物の話だと分かってもらうには文字数が足りないのであきらめる

白き歯が黒牙乞いし月の下けいざい討つはサンタマリアか

↓語感修正

月の下黒牙乞いし白き歯よけいざい討つはサンタマリアや

みやり「そうだったんですね。」
立夏「今回リアルに反省というかミスったなと思ったのは『黒牙乞いし白き歯よ』は白き歯が黒牙を乞う という意味で書いた箇所が黒牙が白き歯を乞う という意味に解釈もできる書き方をしてしまったことです。上の句と下の句の連結が弱かったね。だからみやりさんが、黒牙とサンタマリア、どちらを軸にするか迷ったんだと思う。結果、W主役にしたんだね笑。上の句は、可読性を優先して修正前の「白き歯が黒牙乞いし月の下」のほうがよかった。」
みやり「あー! そっちかー!」
立夏「いやこれは私の書いた短歌が悪いよ……! あとは『白き歯よ』の『よ』に込めた呼びかけと、『サンタマリアや』の『や』に込めた詠嘆のちょっと届かなかった感。(いいかい)月の下で黒牙を求めた白き歯よ、経済を打ち倒すのは(結局のところ)サンタマリアなのだなあ。みたいな短歌だったのですよ。これは短歌側の精進不足!」

翻訳短歌をどう読んだか

立夏「ってわけで短歌は今回足りない部分があったなあと自己反省してるんだけど、それはそれとしてみやりさんがあの短歌をどのような経路で読んで行ったのかを聞いてみたいな」
みやり「黒牙、白き歯、サンタマリアの三すくみが最初でしたね」
立夏「ホウホウ!」
みやり「パッと読んで浮かんだのは教えとか経典感。サンタマリアもあるし。三すくみで……サンタマリアは偶像だろう。何かの概念みたいな。だから肩書きとかそういう方向におさめようと。で、これはもうほんと反省なのですが月の下=舞台設定、黒牙こいし=主語動詞、白き歯よ=目的語、この読みが最後まで崩れなかったので……。」
立夏「悩んだね」
みやり「黒い獣が白い歯を持った弱い存在に対しての行動(牙>歯)で、その行動は刑罪」
立夏「原作は『けいざい』と平仮名だったのでそのまま使ったんだけど、文脈的には原作は『経済』なんだよね。短歌であえて平仮名書きの名詞を使ったことは気に入ってる。このルールでひらがな書きの複数の意味にとれる言葉は法の抜け穴って感じだよね笑。経済→けいざい→刑罪とズレていく様はいかにも逆翻訳っぽくて私は面白い! と思った」


小説はどうだったか

立夏「そんな葛藤を経て逆翻訳小説ができたわけだけど、なんかこう、いろんな事情が隠されているのが面白かったよ。具体的には聖母、狼、オオカミとか……、役割としては作中にちゃんと説明されているんだけど、なぜそうなったか、って部分にきっとあの世界の長い歴史があるじゃない、それこそ何百年レベルの。そのあたりがあえての説明不足感があったのがよかったです。読者にとっては非日常なんだけど、その世界ではもう何百年も続く当たり前の仕組みだから、書かなくていいんだよね。その時間経過や歴史の記載を省略した分、ある一晩の会話やしぐさのディティールをゆったりした店舗で書くことに注力している作品、とみました」
みやり「これは余白を意識しました!」
立夏「身体的力の優劣と、仕組み的な上下関係が逆転している世界なんだよね。その中で、本来理不尽に相手を討つことができる黒牙が弱きものに許しを乞うっていう物語で、でも会話や時間の流れがさりげなくて、文章からお互いが何を考えているかが台詞にも書き込んであって、不思議な感じでした。昔の話なんだけど、手触りが今っぽい。あとこれはもう純粋に、みやりさんという作家が人の心の機敏そのものを直接描写することにすごい関心があるんだろうなっていうのを改めて痛感したよね。ヘンな意味じゃなくて、設定とか最終的にどうでもいいんだろうなって笑」
みやり「そうなんですよね。白象がオツベル経済圏を破壊するという弱者のリベンジがわたしのはなしだと弱い人間が強い狼男を討つというリンクはあったのかな。」


翻訳短歌の名詞が使えないルールは、正に翻訳作業の神髄だ!

立夏「追加ルールは正に翻訳の醍醐味だと感じました。特に以下の部分」

3. 逆翻訳小説を書くときに使用する名詞は、翻訳短歌内の名詞を使わないこと


立夏「前回ハヤブサで日本語の『木漏れ日』は英語では『太陽の明かりが木々の葉っぱの隙間を通って地面に照射する光の模様』と書くしかないって話をしたと思うんだけど、まさにそういうことが今回の追加ルールによって日本語同士でも疑似的に発生させることができましたよね。その木漏れ日のことを翻訳者は知っている……でもその言葉は翻訳先の言語に存在しないから別の言い方をするしかない……でもそのためには木漏れ日という名詞が示す言葉の本質を翻訳者が正しく掴んでいなければならない……」
みやり「そうですね。今回は立夏さんの意図されているようなルートを辿って、膝を打ちました。それは、禁止された名詞が、本文にある、という追加ルールのくだりです。つまりわたしは、再翻訳小説においてどうしても禁止名詞が使いたい、いや使わなければこれは成り立たぬとそう思いました。そうなったらとられる選択肢は意外とあります、類語、比喩、別の言語、述べ方をひたすら色付けしてどうにかその単語を表す……」
立夏「うんうん」
みやり「これってまさに木漏れ日の翻訳アプローチに、近いのでは。と膝を打ちました。また、そのアプローチがその名詞を、超える可能性(わたしが越えたかどうかはさておき)を産み出す翻訳の妙味も感じました。ちなみに使いたかった単語は『月』です」

▼「木漏れ日の翻訳アプローチ」とは:
以下リンクにて前回感想戦の「バックトランスレーションとはどういう作業なんだろう?」をご覧ください。

 みやり「あと、今回は作品選定、本文読解、短歌名詞選定、短歌作成、短歌読解、短歌名詞読解 小説作成。繋ぎの短歌は読みのところのファクターが(前回よりも)強く感じる。」
立夏「たしかに!ハヤブサで読み手じゃないのは原作小説作者だけだもんね。翻訳短歌を書く人も、逆翻訳小説を書く人も、ひとつまえの工程の読み手だ。」
みやり「そうなんです。」
立夏「そして新ルールは結果、作品の精度を上げたと思います! と言っても、作品の精度を「ハヤブサ」においてどう捉えるかってとこあると思うんですけど…。私はハヤブサどうこうは抜きにして、最終的に逆翻訳された小説が前回より面白いと思います!」

翻訳とは何だろう

みやり「今回の小説は色々と反省点が多かった。短歌からのリビルドばかりに気を取られてたような気がする。もう一歩何かで踏み込めた。何かはわからないけど。」
立夏「そこをもうちょっと詳しく。」
みやり「そうですね。たぶんけいざい、なんだとおもう。刑罪と、安易にしてしまったことが1番の反省点。経済と素直に読むべきだった。経済を討つサンタマリアだと、途端に仕事の話が出てくるので、黒牙乞いしを仮に違えたままだったとしても働く人の話にいけたかな。けいざいを、セリフだと仮定してしまった。」
立夏「なるほどね……、むつかしいよね、刑罪という言葉もあるわけだから、間違えてはないんだよね。」
みやり「そうですねえ。ただ理解できない言葉を受肉させるという行為をサボってしまったなあと。」
立夏「老人と海のほうが露骨に原作に近いものができてしまったからどうしても比較してしまうけど、逆翻訳小説に本来正解/不正解はないはずではあるよね。逆翻訳小説作家は、翻訳短歌しか受け取ることができないし。
だってそんなこと言ったら老人と海側だって、翻訳短歌で「老人と海」だと推察することができたなら原作にあたってみて、原作を参考に小説を書くべきだったということになってしまう。でもそれではハヤブサにはならないわけじゃない?となると、私たちはどこを「ハヤブサの精度」とすればいいんだとおもう?たとえばさっきみやりさんは『短歌のけいざいの部分を拾えなかった』と反省してたじゃない? でももしもの話、それが逆だったら……つまり経済の話にはできたけど、人を助けるという要素が抜けているような作品になっていたとしたしたら、みやりさんの納得感としてはどうかな? 私は、今のルートのほうがなんかいい気がする。なぜかというと、オツベルと象は、経済の話でなくても作者は書くことができているはずだから……と、私は見るよね。しかもね今気付いたんだけど、原作の『けいざい』が『経済』であるという保障も実はどこにもないんだよね。『けいざい』はあくまで『けいざい』だよ。」
みやり「そうですね、確かに」
立夏「原作というものは翻訳という作業においてどこまでも完璧なんだと自分は思います。句読点の位置、些細な言い回し、登場人物の名前、すべてが作者の思想の上で完璧に考え抜かれていて……たった一文字でも変えてしまえばそれはその作品ではないと言ってもいいくらい、作者の意志の結晶なんだ。だとしたら?翻訳物は翻訳された時点ですべて不純だという考えを自分は持っているんだよ。……もちろんこれは極論だけどね。林檎とappleは厳密にいえば異なるオブジェクトだ、と言っているに等しいから。」
みやり「なるほど」
立夏「それでも、翻訳文学は存在する必要がある。原作の言語が読めない人に原作のすばらしさを伝えるために。もしその仮説が正しい場合、ハヤブサの精度ってこうじゃないかな。短歌しか読むことができない人のために、原作小説のすばらしさを伝えるにはどうすればいいか。2000文字以内の小説しか読むことができない人のために、翻訳短歌のすばらしさを伝えるにはどうすればいいか。」
みやり「一連の話ですごい腑に落ちたのですが、もしかしたらわたしがこのゲームをやっている人の姿を見たら、そういう美しさ、素晴らしさを人に伝えようと足掻き悩み産み出し読む姿が、良いなあと感じるのかも知れません。いやあこれ楽しいけどもし国語の授業であったらその日は休みます。おやすみ。」

ありがとうございました。

「原作小説選/短歌作」と「バックトランスレーション小説作」の役割を入れ替えたバージョンが立夏さんのnoteに掲載されています。そちらもよろしければ併せてご覧ください。


短歌と掌編小説と俳句を書く