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有料小説「古稀来い、恋来い」

かく 冴子さえこ、まもなく古稀である。そこそこ裕福な家に生まれた。同世代の友人には怒られるが、オイルショックもバブルもあまりぴんと来ない。ぴんと来ないまま終わった感が否めない。

いつもそうだ。若い頃から流行りのファッションもうまく取り入れられなかったし、結婚もいずれするだろうと呑気に構えていたら、いつのまにか結構な年齢になってしまい、子供の顔どころか花嫁姿さえ見せられないまま、両親は旅立ってしまった。

もう何度目かの試みで、冴子はミニクーパーのアクセルをグッと強く踏み込んだ。
足首が埋まるほど深い雪が積もる道路の上で、モスグリーンのミニクーパーは、ぎゅるん、と鳴いた。

タイヤが回転するだけで車体は全く進もうとはせず、ワイパーがメトロノームのように規則正しくリズムを刻むばかりである。人通りの少ない自宅マンション横の細い脇道で、冴子は哀れにも立ち往生してしまった。

困った。これは、困ったぞ。

冴子はハンドルに突っ伏した。免許返納を考えていないわけでは無かった。判断能力も反射能力も間違いなく落ちている。これは良い機会かもしれない。大学の非常勤講師の仕事の時と、週末の買い物の時にしか正直車は使わない。非常勤講師の仕事もいつまで続くかは分からないし、幸いなことにスーパーは歩いて行ける距離にある。ちょっとした用事はタクシーを使った方が、むしろ安上がりだろう。

とは言えこのミニクーパーを手放すのは、かなりの勇気が要る。既に時代遅れな冴子だが、唯一誇れる、オールドファッションで粋な部分が無くなってしまう気がする。自分自身にそんな素敵な部分があるのかは兎も角として、自分のアイデンティティの一部が大きく損なわれる気がするのだ。そして一度損なわれ欠落したそれらは、再び手にすることは酷く億劫になる気がする。

そしてそれは、なんだかとても悲しいことのように思えるのだった。

冴子は姿勢を正し、ぎゅっとハンドルを握り、ゆっくりと深呼吸をして、もう一度アクセルを踏み込んだ。

ぎゅるん。

ミニクーパーの冬タイヤは、冴子の落ち込みなどまるで構わず、1センチも前進することなくその場で空回りをしてみせた。
もう諦めてロードサービスを呼ぼう、と溜め息がこぼれ落ちた、その時。
バックミラーに光が差した。

後ろから一台の車が近付いて来てハザードをあげる。そのネイビーのボルボから降りてきた男性は、ふりしきる雪をよけるように首をすぼめ、冴子の車に駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか?」

それが彼、まる たかしとの出会いだった。

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