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エッセイ「チェス」

少し前、断捨離したチェスボードを実家に置いて来た。親は嫌がったけれど「孫とやんなよ、しかもインテリアとしても申し分ないよ」と、無理矢理押し付けた。悪い娘である。

それはいつぞやの恋人とともに、リサイクルショップで1,500円で購入したもので、駒もボードも全てガラス製だ。多少のヒビやカケはあるものの、当時行きつけのBARでふたりグラスを傾けながらチェスを嗜んだ夜々の思い出から、別れてからもなんとなく手放せずにいた。

彼から貰ったモノはほぼ全て捨てることが出来たのに、幸せな思い出が付随するチェスボードだけは、何故か手放せなかった。親に伝えたようにインテリアとしても申し分なかったが、ひとりぐらしのインテリアにしては場所を取るし埃が目立つ。そんなわけで実家に押し付けた次第。悪い娘である。(2回目)

家族が集まった時、遊び半分で甥っ子にチェスを教えた。その少し前、まだ幼い彼は、クリスマスプレゼントに貰った恐竜のボードゲームで、こてんぱんに負けては何度も癇癪を起こしていた。何度やっても1番になれず「僕が1番が良かったの!」と泣き喚いては、家族全員から勝負の厳しさを諭されていた。

家族の誰一人、忖度してくれず苛立った彼は、ぐちゃぐちゃとボードゲームを散らかして、いつもそこでゲームは終了。後味悪い事この上ない。恐竜ボードゲームはしばらくの間、誰もやりたがらない遊びとして、家族全員から遠ざけられた。

だからチェスボードが同じ憂き目に遭うのでは、と少しだけ心配していたのだが、それは杞憂だった。当時5歳の彼は、あっという間にルールを覚え、負けても嬉しそうに繰り返し勝負を楽しんだ。

それからというもの、時折実家に帰ると甥っ子は「マヤちゃんチェスやろう?」と、事あるごとに勝負を挑んでくる。

テレビゲームの順番待ちの間、天気が悪くて散歩に出られない夕方、面白いテレビが何も入らず退屈している夜。「チェスやろう?」は、面倒くさくも少し嬉しいお誘い。

チェスは私達を、普段のつまらない日常から少しの間、楽しい遊び場へと連れ出してくれる。草原の中を、確実に歩みを進める歩兵。奥座敷に控える王と王女は威厳ある佇まい。その両サイドには、斜めにどこまでも動く僧、気を抜くと首を獲られる騎士、直進する塔。

頭脳のスポーツとは言い得て妙で、わたしはチェスをする時、読書をしているような気分になる。使っている脳細胞が同じなのかもしれない。

勝負の決め手は、どれだけ先を読めるか。決して手は抜かない。大人が子供に忖度をするなど、あってはならない。時に「そこにおくとコレで取れちゃうよ」と教えることもあるが、勝負に年齢は関係ないし、常に互いに対等であるべきだ。

彼は既に、ポーンの初手のルールも、ナイトの動きも完璧だ。何度か負けた。私は昔から勝負事にはめっぽい弱い。姉の方がよっぽど運が強く、ここぞとばかりに勝ちを決めてくる。おそらく彼も、その血を引いている。

恐竜ボードゲームで負け、悔しくて泣いていた彼はもう居ない。いつか追い抜かれるその日まで、いや、追い抜かれても出来るだけ長く、彼とチェスを楽しみたいと思う。だから私が、夜な夜なこっそりとアプリでチェスの練習をしていることは、しばらくの間は秘密にしておくつもり。


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