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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その2:発展する軍港と軍都

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの2つ目、「発展する軍港と軍都」をご紹介します!

(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください

発展する軍港と軍都

 前ページでは、古代から江戸時代までの横須賀線・総武快速線の沿線の歴史を簡単に紹介しました。しかし、重要な街が登場していないことにお気づきでしょうか。そう、横須賀線の名前の由来にもなった横須賀です。ここからは横須賀が歴史の表舞台に登場する幕末期から、明治維新期の出来事について眺めていきましょう。

■黒船、来航

 「幕末」と呼ばれる期間は、アメリカ海軍のマシュー・ペリーが艦隊を率いて開国を要求した事件、いわゆる「黒船来航」から始まると言われています。

 1853年7月8日、ペリーの艦隊は横須賀市の浦賀沖に現れ、その翌週に久里浜の海岸に上陸し、アメリカ大統領からの親書を江戸幕府側へ受け渡しました。この黒船来航や、その後の通商条約の締結をきっかけに尊王攘夷派、公武合体派など様々な立場から政治的な論争が起こり、軍事的衝突も発生し、最終的に江戸幕府の終焉を迎えたことは周知のとおりです。

 一方で、東京湾に外国の蒸気船がやってきた、という事実は、江戸幕府に対して欧米列強の脅威と海の軍事力の必要性を強く感じさせるものでした。幕府はさっそく大型船などの武器を外国から購入し始めますが、幕府内から「日本国内でも造船が出来る体制を整えて、技術を蓄積すべき」と主張する人物が現れます。勘定奉行を務めた小栗上野介忠順です。

■「フランスを感じる海」

 もちろん、造船所のような大がかりな施設には莫大な建設費が必要なわけですが、小栗はこの案件を押し通して予算を確保します。さらに幕府とコネクションのあったフランス公使のロッシュを通じて、海軍技師のヴェルニーを日本に呼び寄せ、人材面でも準備を整えました。

 そしていよいよ建設地を決めることになり、最終的に横須賀が選ばれます。その理由としては「フランスを代表する軍港であるトゥーロンに似た景色であった」といった説明を多々目にするところですが、江戸に近く、水深があり、かつ入り江になっており天然の要塞となっている点などが考慮されての決定であると思われます。

 こうして1865年、横須賀製鉄所は着工(※現代でいうところの「造船所」ですが、当時の慣例で「製鉄所」と呼ばれていたそうです)。途中で江戸幕府が倒れたために明治政府へと引き渡されましたが工事は続けられ、1871年に造船所が完成します。そして1876年には軍艦「清輝」が竣工。ペリー艦隊が浦賀に現れてから23年で、横須賀生まれの軍艦が誕生したのです。そして、1884年には横浜から東海鎮守府が鎮守府が移転して横須賀鎮守府が置かれ、以降、横須賀は軍港として発展していきます。

■市川と船橋、灰燼に帰す

 ところで、横須賀に海軍の施設が整備されていった幕末から維新にかけて、千葉側ではどのような変化が起きていたのでしょうか。

 まず幕末期での大きな出来事としては、1868年閏4月3日に起こった市川・船橋戦争が挙げられます。

 この戦争の直前の4月11日には既に江戸城の無血開城が行われており、江戸は新政府軍の支配下にありましたが、旧幕府の中で徹底抗戦を唱えた一派は江戸から脱出し木更津まで退いていました。しかし、旧幕府軍が北上を決意したことで市川や船橋で新政府軍と衝突するに至ったわけです。

 激しい戦闘の結果、市川と船橋の街は焼け落ちてしまい、特に旧幕府軍が拠点を置いた船橋大神宮には新政府軍の砲弾が撃ち込まれ壊滅的な被害が出てしまいました。禍根が残ることを恐れたためか、新政府側は市川と船橋の街に対して、戦闘終結後にすぐに補償を行ったとも記録されています。

■県都として再興した千葉

 戊辰戦争に続いて房総半島に大きな影響を与えた出来事。それは版籍奉還と廃藩置県でした。

 房総半島は古代から安房、上総、下総の3つの国に分けられていましたが、幕末には17の藩が乱立するようになっていました。さらに明治に入ってからも他地域にあった藩が転封されてきた影響もあり、1871年(明治4年)の廃藩置県直前には26藩にまで増加していました。

 同年中に県の統廃合が行われ、印旛県、木更津県、新治県の3県体制となり、1873年には印旛県と木更津県が合併し千葉県となりました。このとき、県庁は木更津県と印旛県の境界付近にあり、佐倉藩の港町であった千葉に置かれることになり、千葉は県都として再興を果たすことになります。

■「篠原に習え」?

 ところで、千葉県内には古来から軍馬の生産地が存在し、幕末の頃にも幕府直轄の牧が多数置かれていました。しかし、これらの牧は明治時代に入ると一部を残して廃止され、農地など他の用途に転用されていきました。

 これら転用された土地のうち大和田原という土地では、1873年に明治天皇が観覧する中での近衛隊の演習が行われました。その直後、明治天皇は同地を「習志野原」と命名し、陸軍の演習場とするように命を出します。以降、演習場の周りには陸軍の関連施設が置かれるようになり、習志野周辺は軍事都市としての性格を帯びるようになっていきます。

 なお、習志野原に建設された陸軍の施設は非常に多岐にわたっており、特徴的なものを列挙すると、
・第一次世界大戦時にドイツ人捕虜が収容された習志野俘虜収容所(現在の習志野市東習志野四丁目付近)
・1930年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダリストとなった西竹一を輩出した陸軍騎兵学校(現在の習志野駐屯地周辺)
・真珠湾攻撃の際に「ニイタカヤマノボレ」の電文を発信した船橋送信所(現在の船橋市行田)
・毒ガス兵器に関する研究・教育・訓練が行われた陸軍習志野学校(現在の習志野市泉町)
・戦地における鉄道の建設や運転の任に就いた鉄道連隊第三大隊(現在の習志野市津田沼)
などが挙げられます。陸軍習志野学校付近では現在も有毒物質への警戒が続くなど負の遺産が残る一方、習志野俘虜収容所ゆかりの名物として「習志野ソーセージ」が開発されるなど、陸軍関連施設は今もプラス・マイナス両面で地域に影響を与えています。

 ちなみに、「習志野原」の語源については諸説ありますが、1873年の演習の指揮を執っていた篠原国幹少将に因んで「篠原に習え」という意味がある、という説もあります。

 幕末以降、激動の時代を経た東京湾の湾岸地帯は、明治政府が主導する近代化政策によって更に変化が加速していきます。そしてついに、鉄道の時代の幕が上がるのです。


 幕末以降、激動の時代を経た東京湾の湾岸地帯。しかし、明治政府が主導する近代化政策によって、さらに変化は加速していきます。そしてついに、鉄道の時代の幕が上がります。

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ヴェルニー像と小栗上野介忠順像
横須賀駅近くのヴェルニー公園にある像。もともとは1922年に造られた像でしたが、戦時中の供出により一時撤去されてしまったため、現在ある像は戦後に造り直した像とのこと。彼らの尽力によって生まれた横須賀港を望むように設置されています。


次回からようやく鉄道の時代に入ります。次の更新をお楽しみに!

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