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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その1:三浦半島と房総半島の交流

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。
いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中です!(告知はこちら↓)

ところで今回のコミケですが、検討の結果、会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。また、(まだ申請してないですが)同人書店委託も検討しているので、通販で入手していただくことが可能な状態にしたいと思っています。

そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの一つ目、「三浦半島と房総半島の交流」をご紹介します!

(なお文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)


前史1 三浦半島と房総半島の交流

 横須賀線と総武快速線が走る三浦半島と房総半島。晴れた日には東京湾を挟んで互いの姿が見えるほどの距離ですが、「近くて遠い場所」という感覚を持つ人も多いのではないでしょうか。しかし、かつての三浦半島と房総半島は違った関係性だったようです。鉄道が引かれる前の三浦半島と房総半島について、その歴史を紐解いてみましょう。

海を渡っていた東海道

 古代の日本史、といえば「記紀」と呼ばれる「古事記」と「日本書紀」が思いつくところですが、両者には、古代の三浦半島と房総半島の関係性を伺わせる物語が収められています。

 この物語に登場するのは日本武尊と妃であった弟橘媛。東国の平定の道中、日本武尊の一行が三浦半島から房総半島へ渡ろうとしたところ、暴風雨に襲われます。そのとき、弟橘媛が海に身を投げて海の神の怒りを鎮め、日本武尊たちを救った、という物語です。

 このとき三浦半島側で日本武尊が立ち寄ったとされる場所は走水(現在の横須賀市走水)と呼ばれるようになり、また弟橘媛が着ていた衣が流れ着いた地は「布流津」が転じて千葉県富津市の語源になったと伝わるなど、この逸話にまつわる伝承が、三浦半島と房総半島の両方に今も残されています。
さて、この「記紀」の記載が本当にあった出来事なのか架空の物語なのか、という点はさておき、古代の三浦半島と房総半島の間には船で東京湾を渡るルートが存在していたようです。実際に771年までの東海道は海を渡って房総半島に至るルートが設定されていましたし、その道順にあわせて「上総」 「下総」という国名が付けられていました。また、横須賀市吉井には対岸の「安房」の地名を冠した安房口神社という神社が存在します。

 今でこそ結びつきが弱い三浦半島と房総半島ですが、古代から人や文化の往来があったというわけです。

源頼朝と千葉氏と上総氏

 さて、横須賀線沿線の歴史を語る上で外せない出来事といえば、もちろん源頼朝が創建した鎌倉幕府。実はその成立には房総半島が関わっています。
ここで少し、日本史で習った「源平合戦」について振り返ってみましょう

 1180年、伊豆に流刑となっていた源頼朝が以仁王の令旨に応じて挙兵し平家打倒へ動き出します。以降、日本各地に争乱が広がるとともに平家一門は都を追われ、1185年の壇ノ浦の戦いにおいて平家滅亡に至り、頼朝による鎌倉幕府の樹立へ繋がったわけです。

 このように最終的には平家打倒に成功した頼朝ですが、実は伊豆で挙兵した直後の石橋山の戦いでは大敗を喫し、敗走を余儀なくされてしまいます。そして、このとき頼朝が船で逃れた先は房総半島でした。房総半島で頼朝は源氏との縁が深い千葉常胤と上総広常と合流し、兵力を整えたのち、東国の平定を進めていきました。つまり、房総半島で頼朝が再起を果たしたことが鎌倉幕府の成立に繋がった、といえます

 なお、上総広常は後年、頼朝の命によって誅殺されてしまいますが、千葉氏は長らく千葉の地を本拠地として勢力を保っていました。現在、千葉常胤は「千葉氏の中興の祖」と位置付けられ、千葉市内には銅像が建てられています。

鎌倉・千葉の衰退

 幕府が置かれ日本の政治の中心地となった鎌倉、そして有力御家人の本拠地となった千葉。しかし、残念ながら二つのまちは一度、衰退期を迎えてしまいます。

 直感的には鎌倉幕府の滅亡が原因で衰退を招いたのかと思ってしまいますが、室町幕府においても鎌倉には鎌倉府という組織が置かれていましたし、千葉氏も鎌倉府での要職を務めていたので、一定の地位が保たれていました。

 鎌倉と千葉が衰退した直接の原因といえるのは、もう少し時代が下った1450年頃のこと。鎌倉府のトップ・鎌倉公方を務めた足利成氏とその補佐役・関東管領の上杉憲忠が対立するようになり、1455年、足利成氏は上杉憲忠を誅殺するに至ります。しかし、室町幕府は足利成氏を討つことを決め、鎌倉に兵を送ります。結果、足利成氏は鎌倉を去って茨城県の古河に本拠地を移したため、鎌倉から政治機能が失われ、単なる漁村・農村になってしまったのです。

 また、足利成氏と上杉憲忠の対立は千葉氏一族内での対立も引き起こし、一族内での戦闘の末に千葉氏の本家が滅亡するといった混乱が生じます。さらに同時期には安房国の里見氏が千葉の地まで侵攻するなど、千葉氏を囲む勢力の動きも活発化したため、最終的に千葉氏は千葉を去り、佐倉に新しい本拠地を築くことになったのです(後の本佐倉城)。

 その後、千葉氏は小田原の北条氏との結びつきを強めて里見氏などの周辺勢力に対抗していきますが、1590年に豊臣秀吉が小田原攻めを行った際に千葉氏も出陣し、そして一族の滅亡に至ります。しかし、江戸時代に入ると佐倉の地には佐倉藩が置かれ、さらに新しい場所に新しい佐倉城も建設されます。そして、佐倉は新しい城を中心とした城下町として発展していくことになります。

江戸時代の参拝ブーム

 江戸時代には「お伊勢参り」に代表されるように、寺社への参拝を目的に(時には口実として)旅行することが庶民の間にも広がるようになります。江戸近辺の寺社では成田山新勝寺が人気を集め、多くの参拝客が江戸と成田の間を行き来するようになりました。

 成田へ向かう人々の多くは、江戸から佐倉城へ向かう佐倉街道を利用しましたが、同街道はいつしか成田街道という呼ばれるようになりました。そして、街道の往来が盛んになるにつれ沿道も賑わいをみせるようになり、船橋は宿場町、市川は関所と渡しがある町として発展を遂げたのです。

 一方、江戸時代は鎌倉が名所旧跡として注目を集めるようになった時代でもあります。ひとつ目のきっかけを作ったのは徳川家康で、鎌倉を「武家政権発祥の地」と位置付けて寄進などを行い、寺社の再興を図ったのです。

 そして、ふたつ目のきっかけを作ったのは水戸黄門のモデルとして知られる水戸光圀です。光圀は当時、歴史書(「大日本史」)の編纂に着手していましたが、鎌倉に関する資料を補うために現地調査に乗り出します。このときの見聞をもとに「新編鎌倉志」という書物が生まれ、この書物を基に数多のガイドブックが作られるようになります。つまり、江戸時代の鎌倉は名所旧跡が復興を遂げ、かつ旅行書も充実し、観光都市としての素地が整った状態だったというわけです。

 このように、江戸の発展と観光の普及は、鎌倉にも成田街道沿いの街にも大きな影響を与えていたのです。


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↑安房口神社:横須賀市吉井3丁目にある神社。ご神体である霊石は安房国から飛来したと伝えられています。また、この付近には古東海道のうちの一つが通っていたと推定されており、房総半島との繋がりがあった地であることは確かなようです。久里浜駅からバスで約10分。


ここまでの内容が実際の誌面ではこんな感じになる予定です。

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(※今後変更の可能性あり)

日本書紀から話始めてますが、大丈夫です。間違いなく鉄道の同人誌です。

次回は横須賀に軍港が置かれるようになった経緯と、千葉が軍都と呼ばれるようになった経緯のページをご紹介する予定です(が、まだ鉄道は開業しません)!

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