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「詰んでる」って言わせてみたい

私の半生を書きますので、
「もしあなたが私になってしまったら」何から始めますか?

または、
これはもはやお手上げと思ったら「詰んでる」って書いてください。
それはそれで、「他の人が見てもそうなんだな」って、少しは気が楽になりますので。

※時系列にしか話ができないので読むのが大変かと思います。すみません。


学生時代


発達障害という言葉も無かった頃に産まれました。
生まれつきADHDでしたが、誰も気づきませんでした。

幼稚園の頃から本の虫、クラスメイトが笑う時に笑えない、何が面白いのかも分からない子でした。
幼、小、中は1クラスに満たない人数でずっと同じメンバーでした。

空気が読めないという言葉自体も無かったように思いますが、読めてないし、「空気を読んで周りに合わせなきゃいけないものだ」という概念すら持っていませんでした。

「友達は作らないといけないものだ」という概念もなく、クラスで流行っているペン集めも全く興味がなく、「友達」はいませんでした。

「ジコチュー」「〇ね」はずっと同級生に浴びせられて育ちました。
だからどうした、ぐらいに思っていました。
「悪口を言われるということは私が何か悪いことをしたのだ」という発想もなく、悪い意味での開き直りというか、自分がワガママなことを言ってる自覚もないのですから、開き直りですら無かったです。

現在で言うイジメにもあいました。
「〇〇菌(名字)」と呼ばれ、私が肩に触ってしまうとそこを手で拭いて、他の人になすりつける。
そのまま鬼ごっこで、最後はせーの!で床に放出(?)して、みんなはピョンと飛び越えてました。
私はそれが面白くて、わざと同級生の肩を触って周り、皆が飽きて(呆れて)やめると不満に思ってました。

なんというか、私がいかに空気が読めず、ワガママで自己中心的だったのかを書きたいのですが…当時は(自分基準ですが)まったくもって普通に考えて、普通に行動して、普通に生活していたので、どのセリフや行動が周りのカンに触ったのか、はっきりとは覚えてないのです。

しかし、今考えれば私のあのウザさは異常で、異分子を弾き出そうとする同級生の行動は当然だったと思います。
むしろ、ジコチューですみませんでしたと今でも謝りたいですが、同窓会のハガキなど来たことも無く、また来たとしても行く気もないので、叶わないことです。

自分には心当たりは無いが、同級生や先輩達が次々と怒ってしまう。
というか怒ってるかもしれないけど「怒ってる?」って聞くとさらに怒らせる。
そして最終的に縁を切られる。
現在までで、正面から宣言されて縁を切られた回数だけを数えても、片手では足りません。
元々嫌われていて結果的に縁が切れたのもカウントすると、両手でも足りません。

イラつく、ムカつくという言葉はよく言われましたが、その感情を理解できず、中学生の頃に読んだハリポタで初体験しました。
ハリーがマルフォイに怒ってるのを読んで、うざい、もやっと分かりました。

母は私に友達がいない事をある程度心配してましたが、私が平然としてるので、またどうしたらいいのかも分からなかったようで、そのまま育ちました。
私は本だけ読めれば1人の方が楽だと本気で思っていました。

高校でついに無理がきてうつ病になりました。
しかし、子供が鬱になるという情報もまだ無かったので(テレビでも聞いたこと無かった頃です)誰1人として気づかず、悪化しました。
授業中ひたすら寝てるヤツ、でした。
それしか逃げ道がなかったからです。
今思えば授業や成績どころの話ではなかったのですが。よく生き延びたと思います。

当然、成績は悪いというかそもそも出席数が足りず、数学なんかはテストを受けても1問目に「なんか見たことない記号がたくさん出てくる」みたいな有り様でした。

辛くて辛くて叫び出したいのに、自分でも何がどうして辛いのかさっぱり分からずにいました。

先生は「授業に出ろ、授業中寝るな、提出物(宿題)を出せ、学校に来い」しか言いませんでした。
悪い先生は居なかったのですがね。みな一生懸命になってくれました。
全部、私を頑張らせる方向にでしたが。
お世話になった保健室の先生すら、うつ病とは言いませんでした。

県内でも有数の進学校(後から知った)だったのもまずかったと思います。
体力が無さすぎで、家から1番近い、もしかしたら自転車で通えるかもしれない、むしろ自力で通学できなくてどうする、という理由で選びました。

中学までは体調は悪くなくて、真面目に授業を受けて宿題をしていたので成績もいい方だったので、合格してしまいました。
母に車に乗せられて泣きながら学校に遅刻して向かう日々でした。

体力は、今までの人生で、「今日は1日、十分に足りた」と思ったことが無いと思います。
小学校に入ってすぐの時点で、体力が同級生に全く追いついてませんでしたが、理解してませんでした。
とにかく運動嫌いで、走ると数歩で息が切れてしまうため、走るという行為から逃げ回っていました。
小中は私以外のほとんどが運動好きだったので、更に嫌われました。
私みたいに本が好きなやつも、家庭科が好きな人も、1人も居ませんでした。

高校では美術部にいたので、部活だけは少しは楽しかったかと思います。
絵が下手なので描くのは嫌いですが、美術部ぐらいしか所属できそうな部がなくて、帰宅部という発想がなかったので、消去法で入部しました。
なんとか誤魔化して最低限は絵も描いて、なんとか3年までそこに居ました。

2年から3年に上がる時、出席数が足りないのをどうにかこうにか色々な手で進級させてもらい、猛省して3年の前半は死ぬ気で通学しました。
無理がたたって後半は記憶もありません(不登校というか寝込んでました)

どうもこうもならず、休学して3年生を2回やり、2回目は全く登校せず、退学しました。

でも、離任式は行きました。
同級生がみんなスーツ(大学の入学式用の)を着てる中、私だけセーラー服で、今思い出すと我ながらいい度胸してるなぁと思います。 当時は自分だけそれを着ていてどう見られるか分かってませんでした。

結果として、隣の市の通信制の私立の高校の、3年生に編入できて、1年で卒業しました。
1回だけ合宿があって、あとは数回登校しました。
しかしその高校も廃校になってしまったので、高卒というのも幻のような感じです。
仕事どころか、バイトも、就活も、何もしたことないので、関係の無いことですが。


元彼の話と、ついに診断

高校を出たのが二十歳でした。

その頃1人目の彼氏がいて、その後22~28歳まで、6年ほど2人目の彼氏と付き合いました。
コロナの頃に3人目の彼氏がいて、今はいません。

2番目の彼氏は13歳年上だったので、私が若かったのもあるのでしょう。
でもちゃんとお互いに好きで、大事にして貰えました。

しかし、結婚が視野に入ってくると、やはり1馬力なのが不安らしくて、色々考えて障害者手帳と精神障害年金を取りました。

申請の書類がめちゃくちゃ大変で、書くのに1年がかりでした。
病院のソーシャルワーカーさんにおんぶにだっこみたいな感じでしたが、最後は自分で全部ボールペンで必死に書きました。

しかし、年金あってもやっぱり、私の体調が悪いままで、これじゃあ家事とかちゃんとできないよねってなってました。

あと私が空気が読めない発言をご両親とか、元彼の先輩さんの前で繰り返すので、「空気を読むトレーニング」をスパルタでやってくれました。
大変に有難かったのですが、毎回毎回、会う度に怒られ続けてとても辛かったです。

年金の申請と記憶が前後してて曖昧なのですが、26歳ぐらいの時に、カウンセリングでADHDと判明しました。
ADHDが一次障害、うつ病その他が二次障害だとも。

つまり、ADHDが原因でうつ病になってます。
空気が読めず怒られる度に、ストレスという名の養分をうつ病に供給し続けるので、うつ病は治りません。でも、二次障害から治し始めるのがセオリーです。
あと、ADHDは努力や工夫、治療によって改善はされますが、完治はしません。

100%も超えてつま先立ちをして、やっと普通の人のフリを少しすることが出来る。
でもそれは辛すぎるし、それでもまだ結婚するに必要な能力には達しません。

お互いにそれらがはっきり分かってきて、疲れ果てて、別れました。
元彼の30代後半の時間を取ってしまって悪かったと思っています。
(元彼はその後普通の人と結婚したらしいので、それが救いです)

その後も、男性を好きになってはフラれたり、セフレもいた時期もあるし、友達もできて、3番目の元彼と付き合ったり別れたりしました。


そして現在

今は…1つ前の記事に書いた感じですね。
主に体調がひたすら悪い日々です。

あと現状大きな問題点が1つ(というかひと塊)あって、それが「将来」への不安へと繋がっています。
それを次回書きます。


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