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人とともに生きていく

こんにちは。
MAYです。

タイトル通り、人とともに生きていくことについてです。

●人間関係、得意じゃない

物心ついたときから、人と関わるのがあまり得意ではない自覚がありました。こういうことを知人に話すと「社交的な人だと思っていたからビックリ」と言われることが多いのですが、本当に人と関わることが苦手なのです。正確に言うと、決して人と話したり、友好的な関係を築くのが苦手なわけではないのです。人と関わった直後にどっと疲れたり、虚無感を感じたりするので、人と関わることに苦手意識が芽生えてしまった、という感じなのです。


●人のためになることをするのは好き

人と関わるととてつもなく疲労を感じる理由はわかっています。子供のころから、相手が私に何を求めているのか、何を感じているのか、なんとなくわかってしまうことが多かったのです。そしてさらに、人のためになることが好き、という性質が加わって、過度に周囲のサポートやフォローをしたり、時には(柄でもないのに)その場のイニシアティブをとって周囲の人をリードしたり、励ましたりすることが多いのです。けれど同時に「押しつけがましくなりたくない」「大事なことは自分自身で決めるべきだ」という価値観が作用し、今自分はどう振る舞うべきか、どう伝えるべきか、どうすれば最も効果的かつ押しつけがましくなく、相手が自分自身の力でつかみ取ったかのように感じられるのか、と色々考えてしまうのです。人と関わっている間は、考えることもやることも多くて疲れてしまうのですね。

じゃあ辞めればいいじゃん、そんなこと。とも思うのですが、相手の意を汲むことも、相手のためにあれこれ考えてしまうことも、私にとって息をするのと同じような感覚なので、なかなか難しいです。また、自分のしたことが人のためになったと思うと、自分に少し、自信が持てるのです。(まるで自己の存在理由を求めているかのようですが。)


●頑張るほど、虚しい

でも、人のためになることをしたいと頑張れば頑張るほど、「私のために頑張ってくれる人は存在するのだろうか」という虚しい気持ちにもなるのです。きっと周囲には、私が困っていれば助けてくれる人がたくさんいます。しかし、子供時代の「周囲の大人は私を助けてくれなかった」「友人は私の問題を深刻に捉えてくれなかった」という記憶が私の思考に根をはっているのです。本当に、自分に自信がないのです。まるで世界にひとりぼっちでいるような、私だけこの世界から隔離されているような、不思議な気持ちになってしまうのです。そして、「私のしていることはすべて空回りしているのではないか?」と考え込んでしまい、頭の中をぐるぐるといろんな思考や感情が駆け巡ってしまうのです。(そんなことはないと、頭ではわかっているのに。)


●人と関わること=悪意に触れること

人と関わると疲れてしまうのに、人と関わることを辞められない。そうして人と関わり続けていると必ず起きるのは「人の悪意に触れる機会が多くなる」ということです。

人の悪意は恐ろしいです。先にも説明した通り、私は子供のころから人の感情などに敏感なのですが、とりわけ「悪意」は過剰に感じ取ってしまうのです。そして何故か、その悪意が私にむけられているような感覚になり、辛い気持ちになってしまうのです。頭では「私に対する悪意ではない」と理解しているのですが、毎回自分事として感じ取ってしまうので、「反応」→「訂正」、「反応」→「訂正」を繰り返さなければならず、とても疲れます。

また、誰かが悪意で傷つけられているのを見るのも辛く、できる限り助けようと頑張るのですが、頑張れば頑張るほど相手の辛い気持ちに共鳴してしまい(まるで自分事のように感じてしまい)、なぜか当事者ではない私まで深く傷ついてしまうのです。

人と関わることには、大きなリスクが伴うのです。


●それでも、人とともに生きていたい

人と関わりながら生きていくことは、私にとって厄介事。どんなに社交的に振る舞えるようになっても、苦手意識は消えません。それでも、人と関わることを辞められないのです。

きっとどこかに、私のことを理解してくれる人がいるのかもしれないと、勝手に期待してしまっているのかもしれません。(この思考の源については「解離性同一性障害の母と、私の子供時代」という記事に記載しました。)

本当はわかっているのです。私のことを真に理解できるのは、私だけだと。私の「虚しさ」「寂しさ」を埋めてあげられるのも、私しかいないのです。

それでも人はないものねだりを辞められない。私はまだ、人とともに生きていきたい。そのために傷つくことになっても、構わないと思うのです。

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