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余白が大きくて帰れない

正月、上京して何度目かの実家への帰省。
帰省は欠かせない。本当は、どこの誰よりも早く実家のこたつにたどり着き潜り込んでは、我が猫のお腹に顔を埋め、スー、ハーとできない息継ぎ幸せな窒息をしたいことこの上無しなのだけれど。そうした欲望とは裏腹に、現地にいる友達、先輩、後輩の何と楽しいことか。2年越しの忘年会を逃げ切ることなんて到底できなくて、飛び乗りたかった最終列車はいつ、何人たりとも間に合った試しは無い。2年前の自分は2年前と同じく私の手を引き今のマンションへ向かう。
ままならぬようで、むしろ本望みたいな次の日の朝、のそのそとリュックに荷物を詰めて、電車に乗った。少しだけ空いた昼下がりの車内は、年末の空気を纏い、何だか霞んで見える。
今年のお正月はちょっとだけ特別で、両親が多忙だった仕事を辞めたので、のんびりと過ごすことができる。毎年、年越しに間に合うか間に合わないかの時間まで仕事をして帰ってきたかと思えば、次の日も朝早く仕事に出掛けて行ってしまう母や、夜勤でいつも眠そうな父の姿を見ていた私にできることと言えば、ちょっとお皿を洗ったり、在庫を減らすために買ってくる同じ種類のおせちを毎年我慢して食べることくらいだった。おせちが美味しく無かったわけじゃなかった。一人きりだった訳じゃなくて、兄も必ず帰省していたし、猫もいた。ただいつも、ずっと疲れて眠そうな二人を見ているのが辛かった。賞味期限切れのスイーツや、食べ切れない量のホットスナックでいっぱいになっている冷蔵庫を見るのが、なんだか悲しかった。
14時頃に家に着いたので、遅めのお昼ご飯を食べた。夜はハンバーグで、我ながらお子様じみた私の大好物だった。デミグラスソースが甘じょっぱくてどうしようもなかった。

大晦日の夜はすき焼き。
赤い赤いお肉はどんどん茶色くなって、お菓子とお酒を挟みながら食べる。あたたかい。猫が何度もこたつの上に乗って邪魔をしてくる。紅白を観る。ご飯を食べる。世の中の人はみんな、毎年こんなことをやっていたのかと思う。

お腹いっぱいなまま年越し蕎麦が出てきて、ズルズルとすすって完食して、気づいたら年が明けていた。

元日になり、家族で初詣に行った後の午後、母方の祖母の実家を訪ねた。祖母は去年の春に他界したので、また来られて嬉しい。叔父の一家と数時間ほど話した後、暗くなってきてしまったので帰る事になった。

帰りの車、窓から見えるのは、夕刻の田んぼを囲うように連なる山々。雲一つなく、ただただグラデーションがかったここは、この空は、私にはあまりに大きすぎた。そうだ。大きすぎたのだ。有り余るこの空に、あの時の私はあんまりにもちっぽけで、寂しくて、くるしかった。だから耐え切れなくて、この地を出た。この時間、絶対に帰ってこないと分かっていながら、門が閉まる音は強すぎる風のせいと分かっていながら、雲一つない大きな空、橙と薄紫を眺めながら、いつも何となくお腹が空いていた冬のことを、どうしたって一生覚えている。

だから、余白の大きな空に一人ぽっちの私は、たくさんの物で溢れる東京に行くことを選んだ。空の余白が気になるから。こんな大きな空を、私一人では支え切れないから。高いビルで空がよく見えなくて、一人なのは自分だけじゃないのだと安心する。そういう、気持ちを押しやるようなことでしかやり過ごせなかった時が、あの時の私には間違いなくあった。

今、あえて物を増やさずにいるこの部屋ごと、サヨナラできるかな。自分の居場所が分からないままでも、何もかも捨てて、もう一度新しいものを詰め込むための宝箱にできるかな。

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