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子宮外妊娠と流産のあとに生まれた奇跡の子



深刻な生理不順だから、子どもは産めないと思っていた

私はわけあって、幼い頃から根強い男性不信にかかっていました。
なので、20代の前半までは「一生結婚なんてしない!」と息巻いていました。が……
その後、紆余曲折を経て考えが変わり、29歳で結婚しました(男性不信の理由やその後の心境の変化については、今回の話には直接関係ないため、ここでは割愛します)。

結婚した当初は、かなり重度の生理不順(最長で8か月生理が来ないことも)だったこともあり、「私に子どもは産めないんじゃないか」と思っていました。ダンナは「それでもいいよ」と言ってくれたんですが……

彼の母であるお姑さんには、
そんなマトモに生理も来ないお嫁さんに子どもなんて産めるの?
と言われていたらしく(ダンナが私の生理不順を義母に話してしまったんです💦その後猛反省して謝ってくれたので許しましたが)けっこうメンタルやられましたね……
長男のダンナは晩婚、次男の義弟は未婚で、ご近所さんや同級生に次々と孫が生まれていたので、お姑さんは喉から手が出るほど初孫が欲しかったんでしょうけど……この暴言に傷つけられた私は、その後ずっと姑さんへの不信感が拭えませんでした。


意外にも安産体質だった


しかし、不安は杞憂に終わりました。
意外にも私は結婚した翌年に30歳で妊娠し、31歳の誕生日を迎えて10日後に第一子を出産することができました。

さらに意外なことに、その後も立てつづけに妊娠・出産をし、結果として30代で5人の子を生むことができました。
初潮のころから毎月きっちり生理が来たことが一度もない私が、まさかの安産体質だったとは……自分でもびっくりです💦

5人目までの個々の妊娠、出産については、ここでは割愛します。
とにかく幸運だったのは、妊娠中はつわりに苦しんだ以外は、赤ちゃんに何も異常がなく(4人目がかなり低体重でしたが)、出産も最短2時間半、最長6時間とスムーズだったこと。
とくに5人目は助産院で家族全員の立ち合い出産ができ、おおぜいの助産師さんにも祝福されて、幸せいっぱいの出産でした。

5人の内訳は、男3人、女2人でした。
私はじつは三姉妹が欲しかったので、すでに39歳になっていましたが、
6人目の出産にチャレンジすることにしました。


初めての流産……?

どうやら私とダンナの(子作り面での)相性はかなり良いらしく、
私は5人目の卒乳からほどなくして妊娠しました。
年齢は40歳になっていましたが、妊娠率は低下していないことがわかって嬉しかったです。

でも、妊娠検査薬の陽性反応が出て、すぐに病院に行ってもお金をとられるだけでとくにされることもないとわかっていたので、初検診は2週間ほど待つことにしました。
検診は、4人目を見てくれた温和で丁寧なA医師が独立開業していたので、そちらに伺うことにしました。

しかし、検査薬での陽性判定から一週間後の朝、出社するダンナを送り出してからトイレに入ると、微量ですが出血していました。お腹に鈍い痛みも感じました。

これはマズいかも……すぐにダンナにコールすると、駅に着いたところでUターン帰宅してくれました。
そのまま未就園児の5人目を抱え、A医師の病院に行きました。
尿検査、血液検査、超音波検査の結果、
「おそらく流産でしょう。一週間以内に自然に出てくると思います」
と言われました。

流産、流産、初めての流産……
もちろんショックでしたが、超音波で赤ちゃんの影も形も見えなかったこともあり、それほど悲しくはありませんでした。
「人間はもともと妊娠しにくい生き物だし、自然流産も珍しいことじゃないんですよ」というA医師の言葉にも救われました。

しかし、それから3日後。事態は急転します。
朝、ダンナが出社する直前にA医師から電話がかかってきました。
「 先日のhCG検査の結果が出ました。自然流産ではなく子宮外妊娠かもしれません」

A医師の説明によると、胎嚢が見えないのにhCGの数値が上がっているので、赤ちゃんが子宮外のどこかに癒着している可能性がある、ということでした。

「すぐに病院にきてください。もし赤ちゃんが卵管の中にいてそのまま育っていくと、卵管が破裂して大出血を起こし、お母さんの命が危険です」

私も、近くで通話を聞いていたダンナも真っ青になりました。
すぐにまた5人目をおんぶして、A医師の病院に向かいました。


赤ちゃんの姿は見えないまま緊急手術に

診察の結果、やはり「赤ちゃんは卵管にいる可能性が濃厚」という診断が下されました。はっきり断言できないのは、超音波検査でも卵管の中を見ることはできなかったからです。

A医師の病院では子宮外妊娠の手術は行なっていないため、元上司にあたるB医師が院長を務める病院を紹介してくださいました。
B医師は腹腔鏡手術の権威と呼ばれる方で、卵管切除は腹部にごく小さな穴を開けるだけで済むとのことでした。

手術の日程は最速で、2日後の早朝からと決まりました。
「それでもギリギリ。あと少し発見が遅かったら生命の危機だったよ。A先生に感謝しなさいね」
と後からB医師に言われました。本当にA先生にはいくら感謝してもしきれません。

でも、手術の日取りが決まった後も、気持ちが追いつきませんでした。
まだ卵管の中で生きているわが子を、卵管ごと切除してしまうことに。
そうしなければ私自身の生命が危ない、いえ、100%大出血で死んでしまうとわかっていても、なんとかしてこの子を残してあげたい、生かしてあげたい……

それはもう理屈ではなく母性でした。
でも、そんな気持ちを、初老の男性医師であるB医師は理解してくれませんでした。手術の前にもういちど、超音波検査をしてほしい。それで子どもがどこにも見えないことが確認できれば諦めがつくから、と言う私に、彼は嘲るような表情でこう言いました。

「あんた、この期に及んでまだそんなこと言ってるの? 自分の身が危険だっていうのに……そんなものさっさと切っちゃいなさいよ!」

そんなもの……そんなもの……?
どうして? 子宮の中じゃなく卵管に宿ってしまったのはこの子のせいじゃないのに……
夫と子どもがいなければ、この子と一緒に私も死んでしまいたい……もうそれくらい愛してしまっているのに……そんなものって……

号泣する私を見て、ずっとそばについていてくれた看護師長のCさんが信じられないことを言ってくれました。
「つらいよね、哀しいよね……あんなジジイに手術されたくないよね。待ってて、私があいつを追い出してやる!」

ここで注釈を入れますと……彼女は看護師長さんで、B医師は病院の院長。当然、B医師のほうが職位は上です。
にもかかわらず、Cさんは院長を一喝して、本当に手術室から追い出してくれたのです。
代わりに、その日臨時で来ていた若い女医さんに私の手術を頼んでくれました。
Cさんの優しさと心意気に打たれた看護師さんたちも温かい声をかけてくださり、私はまだ子を失う哀しさにむせび泣きながらも、なんとか手術を終え、無事に退院することができました。


三度目の正直? 流産のあとに生まれた奇跡の子

子宮外妊娠で左の卵管を失った私でしたが、その一年後に再び妊娠することができました。
(補足ですが、卵管が片方になっても妊娠確率が半減するわけではないそうです。どちらに排卵しても残ったほうの卵管采がキャッチしに行くそうで(すごいですね!)だいたい7~8割くらいに留まるそうです)

しかし、残念ながらいわゆる「9週目の壁」を越えられず流産という結果に……

そのときすでに42歳になっていたので、さすがにもう潮時かな……と諦めの気持ちも強くなってきました。折しも、コロナが始まった2020年のことでした。
「年度末の3月末までに授からなかったら諦めよう」
そうダンナとも話して、タイミング法で数回チャレンジした結果……3月2日に陽性反応が出ました。

でもまだ手放しで喜ぶことはできず、「また子宮外だったらもう卵管は全滅だし、心拍停止だったらもう立ち直れない……」と、心臓バクバクで迎えた10週目の検診で、元気に動く赤ちゃんの心臓を確認することができました。

その後、妊娠40週までトラブルもなく、第6子となる三女を出産することができました。

お医者さんにも「奇跡ですね」と言われた、まぎれもない高齢出産ですが、さいわい三女はめちゃくちゃ健康に生まれてくれて、2歳までは予防接種以外で病院に行かなかったほど病気もケガもしませんでした。

いまは3歳になったその三女、上の子たちは口にしなかった言葉を口癖のように言うのです。

「あのね~、ももちゃんね~、ずっとママに会いたかった~」と。

……その言葉を聞くたびに、私はじ~んとしてしまって……
もうこれは、バカ母の勝手な解釈ですが☆
子宮外妊娠で失った子の魂も、その後の流産で失った子の魂も、
この子の中に宿ってるんじゃないかと。

もしかしたらあの子たちが、お空に旅立つ途中で、
気が変わって飛ぶのを止めて、そのままふわふわ宙に浮いていて……
眼下の世界で、諦めの悪い母が
「ほんとに妊娠できなくなるまで、あと少し頑張る!」
とあがいているのを見て、くすっと笑いながら、
「も~しょうがないなぁ。もう一回お腹の中に戻ってあげよか」
と、Uターンして地上に舞い戻って、
私のお腹に飛び込んできてくれたんじゃないかなって。

三女の言葉を聞くたびに、私は夢中でその小さくてあたたかい身体を抱きしめます。
「ママもね、ずっと会いたかった。ももちゃんをずっと待ってたんだよ」

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私は8歳で母と、10歳で父と死別した、いわゆるみなしごです。
人の生命のもろさやはかなさに対しては、人一倍敏感に育ってきました。

そんな私が、今では6人の母になり、毎日賑やかに暮らしています。
毎日、亡き両親のことを思い出し、寂しさに泣いていた子ども時代とは、まるで別世界です。

人生って本当にわかりません。
いまは不幸のどん底だと思っていても、自分の努力や心ある人との出会いによって、ディズニー映画より素敵な奇跡が起こったりするものです。

私にとっては、子どもたちがその奇跡の象徴です。
早くに亡くなった親たちの分まで、生命の火は赤々と輝いていて、
その眩しさに目を細める毎日です……









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