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計画→見晴らし と捉えたら

計画というものの見方を変えられるんじゃないかという期待の尻尾を捕まえた気がして、書くことで捕まえようとトライした話

気付きを得たきっかけは、長男

”数学の問題を、筆算せずに暗算でやりきろうとする長男”
”小論文を、構成を作らずに思いつくままに書いちゃう長男”
”定期テスト対策の時間割を立てず、目の前の問題をいくらでも時間をかけて解く長男”
そんな長男とはテストの度に、お決まりの掛け合いが繰り広げられる
親「どこまでやったらいいかわかってんの?」長男「大体は」
親「計画立ててやってる?」長男「いや・・」
親「振り返りしてんの?」長男「・・・」
そして本番や締切が迫ってきて、またお決まりのセリフが出てくる。
「もう、どう書いたらいいかわからない」「何したらいいの」
そこで横についてコーチングすることもあるけど、どうしても無理な時はコンサルしちゃうこともある。
こうしたパターンを繰り返す中で、対策とか計画とかが”面倒くさい”体験として紐ついてしまって、考えることを避けているんじゃないかという気付きがあった。

自分事にしたから気付けた

”考えていることを避けている”ことにはとっくに気付いていたけれど、なぜ、私は気付くのか?については気付いていなかったし、気付こうともしていなかった。
最近、感謝することの習慣化に取り組んでいて(これについては別途記事を書く予定)、日頃起こること、動く感情に対して、「もしこの状況に感謝できることがあるとしたら?」と考えることが増えていた。
いつもの息子の様子と、”面倒くさい”という感情をジャッジせず、自分に取り込んでみたところ、「これって今の自分も同じじゃねーか」という気付きに至った。
勉強計画面倒くさい→計画管理・タスク管理面倒だ
何書いたらいいかわからない→〆切やプレッシャーで、思考がまとまらない

同じところはあるとして、じゃあ息子との違いは何なんだろう?という次の質問が浮かんだ。
それは息子にとっては、試験対策や論文の、終わった状態のイメージと終わるまでの道のりのイメージがなくて、これまで何十回も経験してきた親には、そのイメージがあるからだ。

分かち合いたいこと

これから息子と、そして他の二人の子とは、”計画はトモダチだ”ということをわかり合えるまで伴走しようと思う。そして良き伴走者でいるために、僕も計画とトモダチになる努力をしよう。
でも”計画”という言葉に窮屈さを感じちゃうから、いっそ名前を変えてしまおう。
計画(堅苦しい)→見通しが立つ(まだ堅い)→見晴らし(コレだ)
「見晴らしを立てよう」そして「見晴らしをトモダチにしよう」


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