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見晴らしのおすそわけ ーお葬式は誰のためにあるのかー

意識的に忘れて、前に進む。ためのアウトプットの記録です。
自分のための記録が、誰かの見晴らしをよくすることがあったら嬉しいけれど、なくても気にしません。

「田舎に戻って喪主家族としてお葬式を出す」ことに気の重さを感じていた。悲しみという気持ちからではなく、ルールやチームを知らない人間がいきなり試合のアウェー戦に臨むような、圧倒的な準備不足感があったから。
そして結論から言うと、お葬式は常に準備不足でやってくる。そして準備不足の中であがいてやり切るのが、お葬式の存在理由だという理解にたどり着いた。

得たものは何だったか

10年、20年ぶりに顔を合わせる親族へ、自分の存在を再確認してもらったこと。互いに記憶の中に”居る”レベルから、対面世界の中に”共に居る”レベルに昇格したと感じられた。
知らないことを放置してきたことを取り戻せた、こともある。薄々知っていた親戚同士の微妙な関係の経緯を不意に聞かされることがあった。「この際だから言うけど」の空気を葬式が作っているように感じる。
何歳になっても知らないことに変わりがないことを知った。葬儀の段取り、焼香のあげ方、家族の場合香典ってどうするんだっけ、に至るまで、人生のベテラン衆も確信がなく、周りを見ながら対応する光景に可愛さすら覚えた。

葬式の意義はなにか

これは、親族が、族つまりチームになることを再確認するためのワークショップなんではないかと思う。葬儀屋に言われるがままに作業をこなす、やれ誰それと連絡が取れないだとか、名前間違ってるとか、コーヒー買って来るだとかのイレギュラーに対応していると、グループ意識が段々出てくる。チームがあるからチームプレーがあるのではなく、チームプレーをするからチームになることが、葬式にもあてはまる。
これを発明と呼ぶなら、昔の人の人間への洞察力ってすごいなと思う。故人を偲ぶ儀式が宗教別に決められる遥か前から、”死”をイベントとして生きる人たちを繋ぐ力に気付いて、続けてきた人たちがいたということなので。

まだ解消されていないこと
子供世代をイベントの主体者にするには?

おそらく我が子らの記憶には、お焼香のあげ方とか、香典返しを紙袋につつむだとかの”作業の記憶”としてお葬式がインプットされるんだろう。変に戒律意識みたいなのが刷り込まれる恐れだってある。
なぜお葬式があるのか?昔の人たちは死をどうやって生きることに利用してきたか?世界の人たちは死をどう扱っているのか を話し、学び合うことを社会の授業でやってもいいぐらいだと思っている。


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