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ぼくの問いとシュティルナーの答え②

 前回は教育への問いから出発し、ぼくの素朴な人間観について書きました。今回はシュティルナーの人間観に触れながら、彼との出会いについて書いていきます。(出会いについて書くって、どれだけぼくは彼のことが好きなのでしょうか笑)

✍シュティルナーの人間観

 ぼくたちが「人間」とよぶものを、シュティルナーは「人間なるもの(Menschen)」とよびます。

 「歴史は、人間なるものを探しもとめる。だが、人間なるものとは、私であり、君であり、われわれであるのだ。一の神秘的本質として、神的なるものとして、最初は神として、ついでは人間なるもの(人間性、ヒューマニティ、人類)として求められてきたそれは、個的なるもの、窮極なるもの、唯一者として見出されるのだ」 
 Max Stirner(マックス・シュティルナー)は1844年に “Der Einzige Und Sein Eigentum(唯一者とその所有)”を著しました。
 今回は、Hofenberg Sonderausgabe版(2016)から原文(ドイツ語)を参照しています。原文の引用項を以後、「EE212」と略記します。
 訳出は、マックス・シュティルナー 著、片岡啓治 訳『唯一者とその所有 上・下』現代思潮新社、2013年、下135項。以後、『唯一者』、下135。と略記します。ぼく自身の訳を使用する場合があります。その際は明記致します。 

 「人間っぽいもの」が歴史の主役であり続けたが、シュティルナーはその本体である「唯一者」を見出し、自分自身を「唯一者」とよぶようぼくたちに訴えているのです。

 修士論文(ケアとしての対話について)を書いているとき、議論の前提となっている人間観(人間=ぼく・あなた)に違和感がありました。

 「人間とぼくとを、人間とあなたとを「私たち。我々」として一括りにして書いてしまっている。けれども、ぼくが語ることができる対象、対話が示しているもの、ケアの当事者は「人間」ではない!」という気持ちがあったのです。書けば書くほどに違和感が大きくなっていきました。

✍シュティルナーとの出会い

 シュティルナーの名前を初めて知ったのは、大学院2年生(修士課程3年のうち)のときでした。エゴイズムについて勉強していてたまたま見つけた論文(松尾隆佑「エゴイズムの思想的定位-シュティルナー像の再検討」、『情況』第3期第11巻第2号(通巻92号)、2010年)に彼の名がありました。ガツーンと胸を打たれたのを覚えています。(感動というよりも絶句させられるほどの驚嘆でした)

 即、購入したかったのですが上・下巻合わせて7000円ほど。研究に直結しないと思っていたので、「ほしいものリスト」に入れておくだけにしました。

 月日は流れ、論文提出日まで残り6ヶ月となりました。
 大学院生として最後の年でした。友人のミュウさん(仮名)が誕生日会を開いてくれました。ミュウさんと彼女のパートナーのリキさん(仮名)と僕の三人で、リキさんの手料理を酒の肴にしてゆったり過ごしました。その時にいただいた誕生日プレゼントが5000円分の図書カードでした。

 ふとほしいものリストに入れておいたシュティルナーの本を思い出しました。(あの衝撃をもう一度!)
 急いで生協に購入希望を申し込みました。届いたその日に受取り、その場で最初の一行を読みました。

私の事柄を、無の上に、私はすえた。
*EE4.『唯一者』、上5。
(なんのこっちゃー!けど、カッコイイーーー)

 無我夢中で読みました。ぼくが「人間=ぼく」という記述(当たり前)に対して感じていた違和感を、シュティルナーも共有していたのです。そればかりか、シュティルナー哲学はケアとしての対話と親和性のあるものだとぼくは直感したのです。

 ぼくは論文の方向性をギュイーンと転換して、シュティルナーについて書くことにしました。残り6ヶ月での方向転換は無謀だと思いましたが、ケアとしての対話について議論するためには、土台となる人間観について腰を据えて考えなければならないのです。ぼくはこの事を見てみぬふりをしていました。

 指導教授は「好きなように書いてみてください。あなたの論文なのですから。納得できるものを書いてください」と言ってくれました。(ちびりそうになりました)

 ✍まとめ
 ①ぼくは唯一者である。「人間なるもの」ではない。

 では、またご縁をお待ちして。

#哲学 #研究 #勉強 #シュティルナー #教育 #ケア #唯一者


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