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ぼくらは、ひとりにはなれない。

おととい提出できなかった転入の届出をしに、昨日は区役所へ。
これで晴れて東京23区民。
さいごに世田谷区に住んでいたとき以来だから、7年ぶりくらいの区民返り咲きだ。

ふと疑問に思ったのだけれど、実家の方で転出届を出してからこうして転入届を出すまで、もちろん日本国民ではあっても、ぼくはどこにも属していない無所属の人間だったということになるのだろうか。
その間に何かあったらどうなっていたのだろう。
たとえば捕まったりしたら。
今日晴れて住民となった「◯◯区の会社員、だいすーけ容疑者39歳」となるのか。
まだ行き先に届け出ていなかった訳だから、「△△市のだいすーけ容疑者」となるのだろうか。はたまた「住所不定のだいすーけ容疑者」か。
事故に遭っていたら?
「事故に遭ったのは、日本在住の~」だろうか。

恐ろしくどうでもいいことだし、調べればそんなこといくらでもわかるのだろう。
それでもそうしようとしないのはそれがほんとうにどうでもいいことだからではあるのだけれど、「どこにも所属していない状態」というのはふだんなかなか味わう機会のないことで、そんなあいまいな状態をもうすこし楽しんでみてもいいのかなぁなんて、区役所へと向かいながら、思っていた。





自由になりたいなぁ。
なんて言うけれど、ほんとうにそうなのだろうか。
精神的に、身体的に。
どこにも属していないなんて、そんな不安で心細いことなどないのではと思う。
自由になりたいと言っている人が完璧な無所属を求めているとは思わないけれど、「はい、じゃああなたは今から完全に自由でーす!」と、告げられることがもしあったら。
帰る家も繋がっている人も、生活の糧を得る手段も。
自分を縛るすべてのものから解き放たれる。
そんな恐ろしいこと、ないと思うんだ。

もうちょっと時間くれないかなぁとか、今ひとりにしてほしいのにとか、そういうことはだれにだってあること。
でもそんなとき、ぼくらはきっと、だれかが洗ってくれた服を着て、だれかが作ってくれたソファにもたれて、だれかが用意してくれたご飯を食べながら、だれかが書いてくれた本を読みながら、そう思っているはずだ。

自由になりたいなんて、甘い!
そんなことではなくて。
ぼくらの自由は、だれかに支えられて成り立っているもの。
そんな当たり前のことを忘れてはいけないよねということ。

だって、ほんとうに好きなだけ、気の済むまで自由を謳歌したら、そのあとはきっと、好きな場所や愛する人のもとへと帰りたくなる。
味わった自由を、好きな人たちと共有したくなる。


いろいろあって。
ほんとうにすべてから解き放たれたい人もいると思う。
そのときは、そうしていいと思う。
ただ、それを実現したら、すこしでも早く、帰りたくなる場所を見つけて。
好きな人を見つけて。
あなたを怒ってくれる人を、あなたと一緒に泣いてくれる人を、見つけて。
すこしでも早く。
完全な自由を、制限つきの、不完全な自由に変えよう。


ぼくらは、ひとりにはなれない。


それを肯定的に受け入れることができるということが、しあわせだということなのかもしれないな。





転居のもろもろをようやく済ませて、ぼくもだいぶ落ち着きました。
今思えば、引越で一番大変だったのは、「みずとりぞうさん」が買えなかったことかもしれません。笑
我が区で見つけられず、今のところ、港区と渋谷区でも見つかりません。
早くしないと家がカビだらけになってしまうので、マツキヨのPBのやつを替わりに入手しました。


自由は義務や責任を果たしたその先にあるものだと、ぼくは思います。
そんな義務や責任は、ひとつ果たせばまたひとつ降ってくる。
明日になれば、またそこにある。
そんなものなんです。
だから、とにかくやるべきことをやる。
夢中になって、頑張ってやった先に、やっと少しの自由な時間が生まれる。
自由が尊く貴重なものである理由は、そんなところにあるのではないかと思います。

ちゃんと税金を納めよう。
ちゃんと挨拶をしよう。
ちゃんと隣の人を笑顔にしよう。
ちゃんと、生きよう。

頑張れば手に入る、自分の時間。
それを、自由と呼ぶんじゃなかろうかと。
何があったわけでもありませんが、朝起きて、お風呂掃除をしているときに、ふとこんなことが頭をよぎりました。


本日もさいごまでお付き合いいただき、ほんとうにありがとうございます。
今夜もすてきな夜になるよう願っています。

よかったら、また遊びに来てください。
それでは、また。






いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。